その約束が、確かに存在していたことだけは分かっている。
内容を思い出せないのに、忘れたままでいると胸の奥が静かに痛む。
まるで、言葉になる前の後悔が、ずっとそこに沈んでいるみたいだった。
私は毎朝、同じ時間に目を覚ます。理由はない。
ただ、そうしなければならない気がする。
カーテンを開け、窓辺に立ち、まだ人通りの少ない道を見下ろす。
その景色を見ていると、誰かが来るのを待っているような感覚に包まれる。
でも、誰を待っているのかは分からない。
この町には、思い出せない約束を抱えた人が多い。
それは病気でも事故でもなく、「時間の摩耗」だと説明されている。
大切すぎた記憶ほど、輪郭を失い、最後には理由だけが残る。
だから人々は、理由の分からない不安や期待を胸に、今日を生きている。
私の部屋には、古い手帳がある。
何度読み返しても、肝心な部分だけが白紙だ。
文字が消えたわけではない。
最初から、書かれていなかったように見える。
それでもページの余白から、確かに誰かの気配が滲んでいる。
約束は、きっと言葉だけのものじゃなかった。
夕暮れの色や、風の匂い、指先の温度。
そういうもの全部を使って交わした約束だった気がする。
だから言葉を失っても、感覚だけが残っているのだろう。
ある日、駅前の時計が止まった。
その瞬間、胸の痛みが少し強くなった。
私は理由も分からないまま、ホームへ向かった。
止まった時計の下で、立ち尽くしている人がいる気がしたからだ。
けれど、そこには誰もいなかった。
ただ、ベンチに一輪の花が置かれていた。
見覚えのない花なのに、なぜか懐かしい。
私はそれを手に取って、初めて気づいた。
――思い出せなくても、約束は守れる。
私はここへ来ると決めていた。
誰かと会えなくても、思い出せなくても、それでも来る。
それが、私に残された役目だったのだ。
花をベンチに戻し、私は小さく息を吐いた。
約束は果たされた。
相手が誰だったのか、最後まで分からないまま。
それでも不思議と、胸の痛みは消えていた。
思い出せないままでも、確かに約束は、ここにあったのだから。


