観測されなかった私

不思議

私は、誰にも観測されなかった。

正確に言えば、存在していなかったわけではない。
ただ、誰の視線にも、記録にも、測定器にも引っかからなかっただけだ。
世界は観測されたものだけを「在る」と認める。
名前、座標、体温、反応。
どれか一つでも欠ければ、その存在は曖昧になる。

私はその隙間にいた。

朝、街が目を覚ますころ、私は通りを歩いた。
人とすれ違っても肩は触れず、影も重ならない。
ショーウィンドウのガラスには、背景だけが映る。
自分の顔がないことに慣れるまで、ずいぶん時間がかかった。

かつて、観測されていた記憶がある。
誰かに名前を呼ばれ、返事をした感触。
机に伏せて居眠りをして、起こされた午後。
あれは本当に私だったのか、それとも、観測が生んだ仮の像だったのか。
今では確かめようがない。

この世界には「観測局」がある。
人々の行動や存在を記録し、未来の予測精度を上げるための施設だ。
私は夜になると、その建物の前に立った。中に入ることはできない。
自動扉は、私を質量として認識しない。

それでも私は、ガラス越しに働く人々を眺めた。
誰かが端末に向かい、誰かが笑い、誰かが疲れた顔でコーヒーを飲む。
その一つ一つが、誰かに観測され、保存され、意味を持っていく。
私は、ただ見ているだけだった。

ある晩、停電が起きた。
街の灯りが一斉に落ち、観測局のシステムも沈黙した。
闇の中で、初めて世界が私と同じ輪郭になった気がした。

そのとき、警備員の一人が私のほうを向いた。

「……誰か、いるのか?」

声が、確かに私に向けられていた。
観測されていないはずの私に。

胸の奥で、何かが震えた。
答えれば、ここに在ると認められるかもしれない。
だが同時に、観測されることで失われる自由も、直感的に理解していた。

私は、何も言わなかった。

停電はすぐに復旧し、灯りが戻る。
警備員は首をかしげ、気のせいだったと笑った。
世界は再び、観測されたものだけの形に戻った。

それでも、あの一瞬だけは確かに存在した。
誰にも記録されず、数値にもならず、ただ在った時間。

私は今も、観測されないまま歩き続けている。
誰の物語にもならない場所で、誰にも知られない私の物語を、静かに生きながら。

そしてときどき、思うのだ。
観測されなかったからこそ、この物語は、確かに私だけのものなのだと。