その声は、いつも決まって同じ時刻に聞こえた。
午前二時十七分。
秒針が一度だけ跳ね、時計が一瞬だけ息を止める、その隙間。
最初は風の音だと思った。
古いアパートの廊下は夜になるとよく軋むし、遠くの踏切の残響が部屋まで届くこともある。
けれど、ある夜、その音ははっきりと言葉の形を持った。
「……まだ、そこにいる?」
誰かが、こちらを探している声だった。
私は布団から身を起こし、部屋の電気もつけずに耳を澄ませた。
声は壁の向こうでも、天井でも、ましてやスマートフォンの中でもない。
もっと曖昧で、もっと近い。
まるで、時間そのものがひび割れて、そこからこぼれ落ちてきたような響きだった。
次の夜も、その次の夜も、声は同じ時刻に現れた。
問いかけの内容は少しずつ違ったが、どれも途切れ途切れで、最後までは聞き取れない。
「忘れられて、いないよね」
「ちゃんと、届いてる?」
「ここは……まだ、昨日?」
私は返事をするべきか迷った。
声がどこから来ているのかわからない以上、答えたところで意味があるのかもわからない。
それでも、ある夜、無意識のうちに口が動いていた。
「……聞こえてるよ」
その瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。
時計の秒針が二度、同じ場所を行き来する。
「よかった」
声は、初めてはっきりとした安堵を帯びた。
それから私たちは、時間の隙間で少しずつ言葉を交わすようになった。
声の主は、自分が「いつ」からここにいるのかを覚えていなかった。
ただ、ある約束を果たす途中だったこと、誰かに伝えなければならない言葉があったことだけは、強く残っているらしい。
「でも、時間がうまく進まなくて」
「声だけ、落ちちゃったみたい」
私は尋ねた。
誰に伝えるはずだったのか、と。
少しの沈黙のあと、声は静かに答えた。
「たぶん……君」
胸の奥が、理由もなく痛んだ。
思い出そうとしても、思い当たる記憶はない。
それなのに、その声を聞いていると、長い間探していたものに、ようやく触れた気がした。
ある夜、声は以前よりも弱々しくなっていた。
「たぶん、もう隙間が閉じる」
「最後に、これだけ言わせて」
時計が二時十七分を指す。
「約束を守れなくて、ごめん」
「でも、君が前に進んでくれたなら、それで……」
言葉は途中で途切れ、部屋には静寂だけが残った。
秒針は何事もなかったかのように動き続けている。
それ以来、声は聞こえない。
けれど私は、夜更けに時計を見るたび、ほんの一瞬だけ立ち止まる時間を感じる。
その隙間に、確かに誰かの声が落ちていたことを、忘れないために。
進み続ける時間の中で、聞こえなかった返事を、胸の中でそっと繰り返しながら。


