夜は、誰かに届くために存在しているのだと、彼はずっと思っていた。
街の明かりが消え、電車の音も遠ざかるころ、古いアパートの一室で彼は窓を開ける。
風はほとんど吹かず、カーテンだけが微かに揺れた。
夜は深く、静かで、まるで耳を澄ませているようだった。
彼は机の引き出しから、使い古した携帯電話を取り出す。
画面はひび割れ、電源を入れるたびに少し遅れて光る。
そこには、送信されることのなかったメッセージがいくつも残っていた。
誰かに向けて書いた言葉、あるいは、誰に向ければいいのかわからなかった言葉。
「元気ですか」
「今日は月がきれいです」
「まだ、ここにいます」
送信ボタンを押さずに、彼はいつも夜を迎えた。
昼間は言葉が軽すぎて、夜になると言葉は重くなりすぎる。
結局、どの時間にも属せない言葉たちが、携帯の中で眠っていた。
その夜、停電が起きた。
街全体が一瞬で暗くなり、窓の外から明かりが消えた。
闇は驚くほどやさしく、彼の部屋を包み込んだ。
星は雲に隠れ、月も見えない。
それでも夜は、確かにそこにあった。
彼は携帯の画面を消し、机に伏せる。
誰にも届かなかった言葉たちが、胸の奥でかすかに音を立てた。
言えなかった後悔、呼ばれなかった名前、返事を期待してしまった沈黙。
夜はそれらを一つひとつ拾い上げ、何も言わずに抱えていく。
ふと、遠くで犬の鳴き声がした。
どこかの部屋で水道の蛇口が閉まる音がした。
誰かがまだ起きている気配が、闇の向こうに点在している。
彼は思った。
もしかしたら、夜は誰にも届かなくてもいいのではないか、と。
夜は、伝えるためではなく、残すためにあるのかもしれない。
言葉にならなかった感情や、名前を持たない思いを、そのまま沈めておく場所。
朝になれば、何事もなかったように世界は動き出す。
その前に、夜だけがそれらを知っている。
停電が終わり、街に明かりが戻った。
彼は携帯をそっと引き出しにしまう。
送信されないままの言葉たちは、今もそこにある。
けれど不思議と、少しだけ軽くなっていた。
窓を閉め、彼はベッドに横になる。
誰にも届かなかった夜は、確かにここにあった。
そしてそれだけで、十分だった。
夜は何も返さない。
ただ静かに、すべてを受け取って、朝に手渡すことなく消えていく。
彼は目を閉じる。
誰にも届かなかった夜が、最後にそっと、彼の眠りを深くした。


