朝、靴ひもを結ぼうとして、結べないまま立ち尽くした。
指先は動くのに、なぜか輪が作れない。
昨日、何かを置いてきたせいだと、理由もなく思った。
それは駅前の古い歩道橋の下だった。
夕方、雨が降り始め、信号待ちの人波が濁った川のように揺れていた。
わたしは電話を切り、息をついた。
その瞬間、胸の奥から一つ、音もなくこぼれ落ちた気がした。
慌てて拾おうとしたが、足元には水たまりと影しかない。
代わりに、透明な小さな箱が置かれていた。
蓋には何も書いていない。
けれど、触れれば中身が分かると、直感が言った。
箱の中にあったのは、「昨日」だった。
具体的な出来事ではない。
眠る前の体温、言えなかった言葉、帰り道の匂い、もう少し歩けば違う選択ができたかもしれないという、曖昧な余白。
そういうものが、柔らかく折りたたまれて入っていた。
わたしはそれを、そこに置いた。
持って帰ると重すぎると思ったからだ。
次の日、世界は少しだけ軽くなった。
軽すぎて、靴ひもが結べないほどに。
人の声は届くのに、意味が遅れてやって来る。
笑うタイミングも、うなずく角度も、半拍ずつずれている。
昨日がないと、今日の輪郭はこんなにも曖昧なのかと、歩きながら考えた。
夕方、歩道橋の下へ戻る。
箱はまだあった。
雨に濡れない場所で、誰にも気づかれない顔をしている。
拾い上げると、少し重くなっていた。わたしのものだけではないらしい。
通り過ぎる人たちも、昨日を少しずつ置いていくのだろう。
重ねられた昨日は、互いに溶け合い、誰のものか分からなくなっていく。
蓋を開ける。
自分の昨日は、他人の昨日に触れて、少し形を変えていた。
恥ずかしさは薄れ、後悔は角が丸くなり、言えなかった言葉は、誰かの勇気に寄り添っていた。
胸に戻すと、息が整った。
靴ひもが結べる気がした。
箱を元の場所に戻す。
全部は持ち帰らない。
昨日は、少し置いていくくらいがちょうどいい。
歩き出すと、雨上がりの匂いがした。
今日の輪郭が、ようやく指先に触れた。


