昨日を持たないアパート

不思議

古い三階建てのアパートには、不思議な決まりごとがあった。
住人は誰一人として、「昨日のこと」を覚えていない。

朝になると、廊下ですれ違う住人たちは必ず同じ会話を交わす。
「はじめまして」
「ええ、こちらこそ」
名刺を渡す者もいれば、照れたように会釈する者もいる。
昨日も同じやりとりをしたはずなのに、その記憶は誰の中にも残っていなかった。

壁の掲示板には、見覚えのない文字が並んでいる。
《ゴミは火曜と金曜》
《夜十時以降は静かに》
そして、赤いペンで何度も書き直された一文。
《昨日の自分を信じすぎないこと》

二〇三号室に住む「私」も例外ではない。
目覚めるたび、部屋は少しずつ様子を変えている。
読みかけの本、洗われたままのコップ、誰かと並んで写った写真。
そこに写る相手が誰なのか、どうして笑っているのか、思い出せない。

それでも生活は続く。
人は、覚えていなくても、同じ場所で同じ選択を繰り返すらしい。

ある朝、玄関の内側に貼られたメモに気づいた。
《今日は三日目。彼女を待って》

彼女――その言葉だけが、胸の奥に引っかかった。
誰なのか分からないのに、忘れてはいけない気がした。
夕方、階段の踊り場で、青い傘を持った女性に出会った。

「はじめまして」と彼女は言った。
「……昨日も、同じことを言いましたか」
そう問い返すと、彼女は少し困ったように笑った。

「たぶん。でも、それでもいいと思うんです。覚えていなくても、また会えるから」

彼女もこのアパートの住人だった。
彼女は語った。
ここでは、昨日の記憶が夜のうちに薄れてしまうこと。
喧嘩も、後悔も、別れの言葉も、すべて消えること。
だからこの場所に残ったのだと。

「忘れるのは、優しさでもあるんですよ」
彼女はそう言って、傘を差した。

翌朝、私はまた何も覚えていなかった。
けれど玄関には、新しいメモが貼られている。

《昨日、あなたと笑った。それだけは本当》

私はそれを読み、理由も分からないまま、少しだけ心が温かくなる。
アパートの廊下では、今日も「はじめまして」が行き交う。
忘却の中で、住人たちは何度でも出会い直し、同じ関係を、同じ感情を、静かに選び続けている。