わたしがそのカフェを見つけたのは、人生でいちばん急いでいた日のことだった。
締め切り、将来、不安、全部が一度に押し寄せて、足早に歩いていた路地の奥で、古びた木の扉が目に留まった。
看板には小さく「カフェ・クロノス」と書かれている。
中に入ると、静かな音がした。
音楽でも、時計の秒針でもない。
カップが置かれる気配、人が息をする気配だけが、ゆっくり漂っていた。
壁に掛けられた時計を見ると、針は三時十五分を指したまま、微動だにしない。
「ここでは、時間は進まないんです」
カウンターの奥から、穏やかな声がした。
白いシャツの店主は、年齢のわからない顔で微笑んでいる。
わたしが何も言えずにいると、「外に出れば、ちゃんと続きますから」と付け加えた。
店内には数人の客がいた。
窓際に座る少女は、ノートに同じ一文を何度も書いては消している。
「最初の一行が書けないの」と彼女は言った。
「でも、ここにいると、焦らなくていい」
奥のテーブルには、老夫婦が向かい合って座っていた。
二人はほとんど話さない。
ただ、同じケーキを分け合い、同じ方向を見ている。
「この人といる時間を、もう少しだけ止めたくてね」と、夫が照れたように笑った。
カウンターでは、スーツ姿の男性が冷めたコーヒーを見つめていた。
「決断する前に来ました」と彼は言う。
「選ばなかった未来が、ここでは消えない気がして」
わたしは空いている席に座り、コーヒーを一口飲んだ。
苦くて、やさしい味だった。
胸の奥で絡まっていた焦りが、少しほどけていく。
何かを決めなくてもいい。
前に進まなくてもいい。
ただ、ここにいるだけで許される。
どれくらい経ったのかはわからない。
時計は相変わらず三時十五分のままだ。
けれど、立ち上がったとき、わたしは確かに何かを受け取っていた。
急がなくても、時間は裏切らないという感覚を。
扉を開けると、外は夕暮れだった。
腕時計を見ると、秒針が軽やかに動き出す。
振り返ると、路地にはもうカフェはなかった。
それでも、ときどき思う。
あの場所では今も、時間に追われる前の人たちが、静かにコーヒーを飲んでいるのだと。
時計が進まないまま、心だけが、そっと動き続けている。


