夕暮れの街に、もう看板の灯らない映画館がある。
かつては週末になると行列ができ、ポップコーンの匂いが風に混じったその建物は、今ではシャッターの隙間から埃を吸い込むだけだ。
閉館から一年、取り壊しを前にした最後の夜、管理人はひとりで客席に足を踏み入れた。
スクリーンは白布を剥がされ、壁には光の跡だけが残っている。
座席はすでに撤去され、床に残るのは錆びたボルト穴と、数え切れない靴底の記憶。
だが、中央より少し後ろ、通路脇にだけ、なぜか一席が残っていた。
赤い布地は色あせ、肘掛けには無数の擦り傷。
管理人は首をかしげる。
手順書には「全席撤去」とあったはずだ。
その椅子に腰を下ろすと、ぎし、と懐かしい音がした。
視線を上げれば、もう映らないはずのスクリーンに、かすかな揺らぎが浮かぶ。
最初に現れたのは、雨の夜に肩を寄せ合う若い二人。
次は、子どもを膝に乗せて字幕を追う母親。
仕事帰りに眠気と戦いながらも、最後まで席を立たなかった男の背中。
映像は音もなく、けれど確かに温度を帯びて流れていく。
管理人は思い出した。
この席は、いつも「最後まで残る」人の席だった。
途中退席が多いアクションでも、長いエンドロールの間、拍手をしない代わりに静かに見届ける人が座る。
涙が乾くのを待つために、立ち上がれない人が座る。
誰かと観た時間を、もう少しだけ延ばしたい人が座る。
映像はやがて、ひとつの場面に収束した。
閉館の告知が出た夜、誰もいないはずの客席で、ひとりの老女がこの席に座っている。
彼女はスクリーンに向かって小さく会釈し、エンドロールが終わるまで瞬きひとつしなかった。
管理人は胸の奥が熱くなる。
あの夜、彼はドアの外で鍵を持ち、終わりを待っていたのだ。
「ありがとう」
誰かの声がした気がして、管理人は立ち上がった。
椅子はもう、ただの椅子に戻っている。
彼は工具を取り出し、ボルトを外した。
最後の一席は、静かに床から離れた。
翌朝、映画館は取り壊された。
だが街のどこかで、エンドロールを最後まで見る人が、ふと腰を下ろすと、赤い布の感触を思い出すという。
席は消えても、残るという選択だけが、まだ上映を続けている。


