呼ばれることで、透明にならない

不思議

名前を失うと、人は少しずつ透明になっていく世界がある。
最初は指先からだ。
光が指の輪郭をすり抜け、影が薄くなる。
次に耳、肩、膝。
最後に残るのは、胸の奥にしまわれた温度だけだと、人々は言った。

この町では、生まれたときに与えられる名前を「錨」と呼ぶ。
錨がある限り、人は世界につながり、他者の視線に留まる。
だが、名前は奪われることがある。
大きな罪を犯したとき、あるいは誰からも呼ばれなくなったとき、名前は音を失い、紙のように剥がれ落ちる。

郵便配達の少年リオは、毎朝、呼び鈴を鳴らしながら名前を届けていた。
封筒の宛名を声に出して読む。
それがこの町の決まりだった。
呼ばれることで、人は確かさを保つ。
声は透明化を食い止める、ささやかな薬だった。

ある雨の日、リオは宛名のない手紙を受け取る。
差出人もない。
中には一行だけ、かすれた文字があった。
「わたしの名前を、思い出して」。
リオは首をかしげたが、胸がひどく冷えた。

手紙の差し出し先は、町外れの古い温室だった。
ガラスは曇り、蔓が絡み、扉は半分消えかけている。
中に入ると、椅子に座った誰かがいた。
輪郭は揺れ、光の向こうに景色が透ける。
声が聞こえた。
「呼んで。お願い」

リオは名前を探した。
記録帳をめくり、町の古老に聞き、学校の卒業写真を数えた。
けれど、その人はどこにもいない。
呼ばれなくなった時間が長すぎたのだ。
透明化は、記憶からも消してしまう。

それでもリオは温室へ通った。
毎日、同じ時刻に、ありったけの呼び名を口にした。
「あなた」「きみ」「友だち」「誰か」。
すると、揺れていた輪郭がわずかに留まり、温度が戻る気配がした。

ある日、リオは気づく。
大切なのは正しい名前ではない、と。
誰かが誰かを必要とする、その関係にこそ錨が生まれる。
リオは深呼吸し、はっきりと言った。
「あなたは、ここにいる」

その瞬間、透明な人の胸に光が灯った。
完全には戻らない。だが、消えもしない。
町ではその日から、新しい決まりができた。
名前を失った者には、毎日一度、存在を呼ぶ言葉を贈ること。
名前がなくても、人は人でいられると、リオは学んだ。

夕暮れ、温室のガラスに二つの影が映る。
薄くても、確かに並んでいる。
世界はまだ、呼び合う声で支えられていた。