地図の外で待つ場所

面白い

古びた本屋のいちばん奥、埃をかぶった棚の影に、その本はあった。
背表紙には金色の文字で「地図帳」とだけ書かれている。
けれど開いてみると、そこに載っているのはどの地図にもない場所ばかりだった。

ページの端には、かすれた字で注意書きがある。

——ここに載るのは「行ったことのある場所」ではなく、「ずっと心にあった場所」である。

中学生の悠(ゆう)は、その言葉に胸の奥をくすぐられた。
試しに指でなぞるようにページをめくると、インクの線がゆっくりと動き出し、白紙の上に街や森や海が描かれていく。
気づけば本から風が吹き出し、視界が薄れて——目を開けたとき、悠は知らない丘の上に立っていた。

そこは「約束の帰り道」と名づけられた場所だった。
夕焼けに染まる一本道の先に、小さな背中が見える。
幼いころの自分だ。誰かを待っている。
あの日、喧嘩をして、そのまま謝れなかった友達の影も道の先に揺れている。
声をかけようとすると風が吹き、景色が砂のように崩れた。

次の瞬間、悠は霧の駅にいた。
看板には「言えなかった言葉駅」。
ホームのベンチには、人々が手紙のような言葉を握りしめて座っている。
笑顔で、すこし泣きながら。
電車は静かにやってきて、誰も乗らないまま去っていった。
残された言葉たちが、ほんのり光りながら空に溶ける。

さらにページは勝手にめくられる。
草の匂い、水の気配、夜の音。
悠は「もうなくなった家の庭」へ、「名前のない友情の場所」へ、「心が壊れかけた夜のベンチ」へと旅した。
どの場所も懐かしくて、少し痛い。
そして、どこもたしかに自分の中にあった。

最後のページにたどり着くと、そこだけ真っ白だった。
題名は空白のまま。
悠はしばらく迷い、震える指で文字を書いた。

「これから見つける場所」

すると白紙に道が描かれ始める。
まだ見ぬ誰か、まだ知らない景色、まだ言っていない言葉。
胸の奥が温かくなり、怖さと期待が入り混じる。

風がまた吹いて、本屋の匂いが戻ってきた。
悠はもとの棚の前に立っていた。
地図帳は静かに閉じられている。
だが、もう知っている。
この本は「どこか」へ連れていくものじゃない。
自分の中のまだ名前のない場所を、そっと照らしてくれるだけなのだ。

悠は本を棚に戻し、扉のベルを鳴らして外に出た。
夕焼けの街は前と同じなのに、少しだけ広く見える。
地図にない場所は、世界の外ではなく、自分の内側にいくつも続いている。
そのことを確かめるように、悠は一歩を踏み出した。

——新しいページは、これから書く。