届かない手紙のポスト

面白い

町はずれの小さな郵便ポストの前に、春菜は今日も立っていた。
ポストの赤は少し色あせて、角のところにかすかな傷がある。
彼女はその傷を指先でなぞってから、そっと白い封筒を差し入れる。
からん、と軽い音。
手紙は、今日もどこへも届かない。

宛先はいつも同じ――存在しない住所、存在しない名前。
けれど春菜は知っていた。
そこへ手紙が届かないことも、自分だけが知っている誰かに書いていることも。
だからこそ、書き続ける理由があった。

手紙を書き始めたのは、一年前の雨の日だった。
言えなかった言葉、渡せなかったノート、あの日交わし損ねた「またね」。
胸の奥で絡まったままの想いは、言葉にしないと重くなる。
けれど誰に渡すわけでもない手紙なら、素直に本当のことを書けた。

机に向かうと、紙の白さが彼女を迎える。
鉛筆を持つ指に少し力が入る。
「今日はね、桜が咲き始めました」
「体育のとき転んで、みんなが笑ったけど、私も笑えました」
「あなたがいたら、なんて言うかな」
一行書くごとに胸の痛みはほどけ、静かな温かさに変わっていく。

誰もいない夜の部屋で、封筒を重ねていく音だけが小さく響く。
抽斗の中には、すでに分厚い束。
日付の違う手紙たちは、春菜の一年をそのまま抱きしめていた。
届かないと知っているのに、なぜ書くのかと問われたら、彼女はうまく答えられない。
ただ、書き終えたあと少しだけ息がしやすくなる。
その感覚が、答えの代わりだった。

ある日、郵便局で働く年配の職員が、同じ字の封筒を何度も見ることに気づいた。
宛先は曖昧で、どれも戻ってくるはずのもの。
だが差出人欄には名前がない。
彼は迷い、そっと封筒を見送るだけにした。
ポストに手紙を入れる少女の横顔が、どこか「さようなら」と「こんにちは」のあいだに揺れているように見えたからだ。

初夏の風が強い午後、春菜は初めてペンを止めた。
長い手紙の最後に、短い一文を書き添える。
「もう、大丈夫だよ」
書いた瞬間、涙がこぼれた。
悲しい涙ではなかった。
紙が静かに涙を吸い込む。
封をして立ち上がると、足取りは軽かった。

ポストの前で、彼女は少しだけ空を見上げた。
白い雲がほどけるように流れていく。
封筒を差し入れる。
からん――いつもの音。
だが今日は、その音が小さな合図のように聞こえた。

帰り道、春菜は気づく。
ポケットの中に、未投函の封筒が一通残っていることを。
宛先はやはりない。
でも差出人欄に、小さく自分の名前を書き足す。
「これからの私へ」

家に戻り、その手紙だけは机の引き出しにしまわず、本の間にそっとはさむ。
届かない手紙を書き続けた一年は、消えてしまったわけではない。
言えなかった言葉は確かに生きて、彼女の背をそっと押している。

翌朝、窓を開けると、新しい風がカーテンを揺らした。
春菜は深く息を吸う。
もう手紙は書かないかもしれないし、また書くかもしれない。
それでいい。
届けようとしても届かなくても、言葉は自分の中を通り抜けて、光の方へ歩かせてくれると知ったから。

ポストはいつも通り、角の傷をそのままに静かに立っている。
春菜は微笑んで会釈をした。
「いままでありがとう」

赤い箱は何も答えない。
ただ、風の音だけが、やさしく彼女の背中を押した。