終わりに流れた歌

面白い

古いオルゴールは、棚の隅で静かに眠っていた。
木の箱には小さな傷が無数に刻まれ、金色だった飾りはくすんでいる。
蓋を開けば、まだバラの模様が faint に光るけれど、ぜんまいは重く、音はところどころで途切れる。
誰かに触れられることもなく、季節だけが通り過ぎていった。

この家に、また冬が来た。
帰ってきたのは、成長したひとりの女性――紗季だった。
かつてこのオルゴールをくれた祖母の部屋は、今は使われていない。
薄いカーテン越しに午後の光が入り、埃の粒を照らしている。

紗季はそっと引き出しを開け、その奥に眠っていたオルゴールを見つけた。

「あ……まだあったんだ」

蓋を開けると、かすかに甘い木の匂いがした。
幼いころ、眠る前に祖母が回してくれた、やさしいメロディ。
眠れない夜、泣きじゃくった日、嬉しいことがあった日も――いつも最後はこの音色に包まれて眠った。

けれど祖母が亡くなった冬、オルゴールは手の中で「コトリ」と弱い音を立て、それから曲の途中で止まってしまった。
あの日以来、紗季はぜんまいを回せずにいた。

今、掌の中のそれは、以前より軽く小さく感じる。

「もう、鳴らないかもしれないね」

そうつぶやきながら、躊躇していた指が、そっとネジをつまむ。
ぎゅ、ぎゅ、と不安な手応え。
金属が遠くで軋むような感触。
息をのんで蓋を大きく開いた。

最初の一音は、壊れた鐘のように震えていた。
二音目は、風にちぎれそうな細い音。
三音目で、音はふっと途切れた。

――ああ、やっぱり。

そう思った瞬間、ひそやかに旋律がつながった。

かつて聴いたのより、ずっとゆっくりで、ところどころ欠けている。
それでも確かに、懐かしいあの曲だった。
部屋の空気がふるえ、埃の粒さえ踊りだしそうに見えた。

紗季の胸の奥で、何かがほどけていく。

祖母の声が蘇る。

「音ってね、形はないけど、気持ちの入れ物になるんだよ」

自分の小さな手を包んでくれたあたたかさ。
台所から漂ってきた煮物の香り。
窓辺で編み物をしながら、こっそり笑った皺の深い横顔。

オルゴールの歯車は、もう限界に近いのだろう。
音は揺れ、針は迷うように震え、音階は短くつまずく。
それでも曲は、前へ前へと進もうとする。

紗季の目から、涙が一滴落ちた。
木の蓋に滲み、小さな丸い跡をつくる。

「ありがとう」

声に出したつもりはなかったのに、唇がかすかに動いていた。

音色は次第に細くなり、透明になり、冬の空気に溶けていく。
最後のフレーズが、懸命に跳ね上がり、そっと舞い降り――そして静寂が訪れた。

ぜんまいはもう戻らない。
歯車も動かない。
オルゴールは完全に止まった。

けれど部屋には、まだ余韻が満ちていた。

紗季はゆっくりと蓋を閉じた。
暗闇に戻るはずの箱の中で、小さな光がまだ揺れている気がした。
祖母が残してくれたのは、壊れた機械ではなく、その最後の一曲と、その音に託された気持ちだった。

窓の外で、初雪が降り始めた。
音もなく舞い落ちる白い結晶が、世界を静かに覆っていく。

紗季はオルゴールを胸に抱きしめる。

もう鳴らない。
そのかわり、胸の奥でいつでも鳴らすことができる。

壊れたオルゴールは、最後の一曲で役目を終えたのではない。
最後の一曲で、想いを手渡したのだ。

静けさの中で、その旋律がもう一度だけ、心の内側で優しく流れた。