真夜中、町の灯りがすっかり消えた頃、線路の向こうから低い風のような音が近づいてくる。
ダイヤには載っていない電車――“真夜中の電車”は、もう誰も使わなくなった駅にだけ止まる、不思議な列車だった。
桐生灯里は、その噂を子どもの頃から聞いていた。
廃線になった旧北ヶ丘駅のホームに、午前零時きっかり、銀色の車体が音もなく滑り込んでくるのだという。
降りてくるのは乗客ではなく、「思い残し」だけだと。
ある晩、灯里はポケットに祖母の古い切符を入れて、人気のないホームに立っていた。
祖母が最期まで大切にしていた未使用の切符。
行き先は、もう存在しない駅名で印字がかすれている。
夜露に濡れたベンチと、色の剥げた看板だけが、ここにかつて人が集っていたことを知らせていた。
零時。
風が止み、闇が耳鳴りを抱いたように重くなる。
次の瞬間、レールがかすかに震え、白いヘッドライトが霧を裂いた。
真夜中の電車は、ブレーキの音ひとつ立てずに止まり、無人のドアが静かに開く。
車内は懐かしい匂いがした。
古い紙、雨上がりのホーム、遠い日の会話。
座席には誰もいないのに、温もりだけが残っている。
灯里が足を踏み入れると、行き先表示機が揺らめき、「ただいま」と一瞬だけ光った。
車窓の外を流れるのは、かつてあった町の面影だ。
閉じた文房具店の明かりがふっと灯り、笑い声がこぼれる。
取り壊された木造校舎が月光を浴びて佇み、ホームでは誰かが手を振っている。
過去と現在の境が薄紙のように重なり、音もなくめくられてゆく。
前方の席に、祖母の横顔が見えた気がした。
編み物を膝に乗せ、こちらを振り返る。
声は届かない。
ただ、唇が静かに動き、「行っておいで」と形を作る。
灯里の手の中の切符が、不意にぬくもりを帯びた。
列車は次々と、廃駅に止まっては記憶を降ろしていく。
落とされた約束、言えなかった謝罪、渡しそびれた手紙。
それらはホームの闇に溶け、夜気にほどけて星のように散った。
車内は少しずつ軽くなり、灯里の胸の奥も同じようにほどけていく。
最後の停車駅で、ドアが開いた。
そこは見覚えのない小さなホームだったが、ホームの端に、幼い自分が立っていた。
泣きそうな顔で、言葉を探している。
灯里はそっと近づき、あの時言えなかった一言を、やっとの思いで口にした。
「さよなら、そして、ありがとう」
風がやさしく通り抜け、幼い影は光に溶けた。
真夜中の電車はもう一度だけ低く鳴き、灯里を現在へと送り返す。
気がつくと、旧北ヶ丘駅のホームに立っていた。
手の中の切符は、欠片のような金色の粉になって消えていた。
始発の気配が空を薄く染めていく。
遠くで鳥が鳴いた。
誰もいないホームに、灯里は小さく会釈をする。
真夜中の電車は、もう見えない。
けれどレールの奥で、確かに光が返事をした気がした。
使われなくなった駅の静けさは、もう寂しさではなかった。
そこには、届けられた言葉と、やっと辿り着いた別れの温度が、そっと残っていた。


