冬の朝、白い息を吐きながら登校する道すがら、蓮は一本の川沿いで立ち止まった。
霜に縁取られた草むらの中で、小さく丸くなっている黒い影に気づいたからだ。
近づくと、それは細い体を震わせている一匹の犬だった。
首輪はなく、声を出そうとしても喉の奥で空気が擦れるだけで、鳴くことができないらしかった。
蓮はランドセルを降ろすと、そっと犬の頭を撫でた。
そのときだ。
言葉ではない何かが、胸の奥にふっと流れ込んできた。
――さむい。こわい。でも、まだ歩きたい。
驚いて手を引っ込めた蓮は、周囲を見回した。
誰もいない。
けれど確かに「声」が聞こえたのだ。
耳ではなく、心で。
「……聞こえたの、君の心?」
犬は小さく瞬きし、蓮の手の甲に鼻先をすり寄せた。
それだけで、温かな火が胸の真ん中に灯る。
蓮はマフラーを外し、犬の体に巻きつけた。
その日から、蓮と犬は放課後になると川沿いのベンチで会うようになった。
声を出せない犬は、代わりに心で話した。
――名前がほしい。
「じゃあ……“シロ”ってどう?」
――ぼく、黒い。
「たしかに」
――それでも、いい。
二人で同時に笑ったような気がして、蓮の肩の力が抜けた。
蓮もまた、誰とも本音で話せずにいた。
クラスではうまく笑えず、言いたいことを飲み込んでばかりだった。
だから「心で話す」ことができるシロにだけは、自然に言葉がこぼれた。
「家でね、最近あんまりうまくいってなくてさ」
言った瞬間、胸の奥がつまる。
けれどすぐに、柔らかな波のような気配が返ってきた。
――ぼく、ここにいる。だから話して。
蓮は、シロの暖かさに指を沈めながら、初めて自分の弱さを全部こぼした。
シロは何も言わない。
ただ寄り添い、静かな安心を送り続けた。
ある雪の降る夕方、シロはいつもの場所に現れなかった。
蓮は霧のかかる川沿いを何度も行き来し、冷たい手をぎゅっと握りしめた。
胸の奥がざわざわと騒ぎ、不意に微かな心のさざめきが届いた。
――ごめん。歩けない。
蓮はその気配を頼りに走った。
橋の下、小さな影が雪に埋もれるように横たわっている。
息は荒く、体は冷え切っていた。
「シロ! いなくならないで!」
抱きしめた瞬間、胸の奥に柔らかな光が広がる。
――だいじょうぶ。きみに会えて、うれしかった。
「そんなの、まだ言わないでよ」
シロの体は軽く、けれど確かな温もりを残していた。
蓮は泣きながら叫び、通りがかった大人の助けを呼んだ。
動物病院の白い灯りの中で、シロは静かに眠った。
危険な状態だったが、獣医はやさしく言った。
「この子、頑張り屋さんだよ」
夜遅くまで椅子に座り、蓮はシロの寝息を聞いた。
外の雪はやんで、窓に小さな星が滲んでいた。
――ありがとう。きみの心の声、だいすき。
はっとして蓮は顔を上げた。
シロはまだ眠っている。
それでも確かに、あの声が胸いっぱいに響いていた。
「……ぼくもだよ。シロ」
それからの日々、シロは蓮の家の一員になった。
声は出せないままだけれど、二人の間には言葉よりも確かな通路が伸びていた。
学校でうまくいかない日も、家で言えない気持ちが溜まる夜も、蓮はシロに触れた。
すると心の奥がほどけ、結び目がゆっくりほどけていった。
――だいじょうぶ。きみは、きみでいい。
蓮は気づいた。
シロの声を聞いていたのではない。
シロと出会って、自分の心の奥の声を、やっと聞けるようになったのだ。
春、川沿いの草むらに新しい緑が揺れた。
蓮とシロは並んで座り、同じ景色を眺めていた。
シロはしゃべらない。
けれど、心は澄んだ鈴の音のように響き合っている。
そして蓮は、そっとつぶやいた。
「もう一人で黙らなくていいね。二人で、聞けばいい」
風がやさしく吹き、見えない言葉が空へ溶けていった。


