教室の隅に座る彼は、いつも静かだった。
名前は佐伯。出席番号の点呼に小さく手を挙げる以外、誰かと話しているところをほとんど見たことがない。
授業中は黒板を真っすぐ見つめ、休み時間は窓の外を眺めている。
その横顔に話しかけてみようと何度も思ったが、言葉は喉でからまり、結局タイミングを逃してきたのは、私の方だった。
三年間が過ぎ、卒業式の日がやってきた。
体育館には花の匂いと、保護者たちのざわめきが満ちている。
胸に赤いリボンをつけて並ぶ同級生たちは、泣いたり笑ったり写真を撮ったり、慌ただしく揺れている。
その中で、佐伯だけは、やはりいつもの席に静かに座っていた。
けれど、どこか違って見えた。
肩の力が抜け、何かを待っているような表情だった。
式が終わり、解散の声が響く。
拍手が静まった瞬間、私はなぜか足が彼の方へ向かっていた。
最後くらいは、と思ったのだ。
話しかけられなかった三年間の後悔を、ほんの少しでも埋めたかった。
「ねえ、佐伯」
自分の声が驚くほど震えていた。
彼はゆっくりとこちらを向き、目を細めた。
「やっと、話しかけてくれたね」
その瞬間、私は息を飲んだ。
柔らかく、はっきりとした声だった。
教室の空気が一瞬だけ止まったように感じた。
「……しゃべれるんだ」
思わずそうこぼすと、彼は少し照れくさそうに笑った。
「うん。卒業式の日だけね」
冗談かと思ったが、その瞳は冗談を言う人のものではなかった。
彼は黒板の上に貼られた三年間の写真に視線をやり、ぽつりと続ける。
「昔から、言葉にすると消えていくのが怖かった。約束も気持ちも、声にした途端、どこかへ流れていく気がして。だから黙って見てた。みんなが笑って、怒って、泣いて、変わっていくのを」
彼の言葉は不思議と胸にすとんと落ちた。
静かな人の中には、静かなままの世界がある。
「でも、今日だけは違う。ここで終わりだから。消えるのが怖くない。……だから、ちゃんと話したかった」
「誰と?」
そう尋ねると、彼はまっすぐにこちらを見た。
「君と」
心臓が跳ねた。
三年間、一度も交わさなかった会話が、濃い春の空気に溶けていく。
「ずっと見てた。掃除のとき真面目に机を運ぶのも、体育で転んでも笑ってるのも。声に出せなくても、同じクラスでいられるのが嬉しかった」
言葉は短いのに、重ねられた時間の分だけ温かかった。
「私も……話しかけたかったよ。でも勇気がなくて」
そう言うと、彼は少し安心したように微笑んだ。
「なら、おあいこだね」
廊下からはしゃいだ声が響く。
記念写真を撮ろうと呼び合う声、名前を呼ぶ声。
世界が動き出す気配の中で、私たちだけが、小さな止まった時間の中にいた。
「これから、どうするの?」
私が尋ねると、彼は窓の外の桜のつぼみを見つめた。
「それを言うと、また消えちゃう気がする。でも——前を向くよ。黙ってばかりじゃなくて。今日話せたんだから、きっと大丈夫」
その言い方は、まるで自分自身への宣言のようだった。
「じゃあ、またどこかで会ったら、そのときは?」
彼は少し考えてから、いたずらっぽく笑った。
「そのときは、卒業式じゃなくても話してみるよ。たぶんね」
チャイムが鳴り、最後のホームルームが終わる合図が響いた。
彼は立ち上がり、扉の方へ歩き出す。
すれ違いざま、小さく手を振った。
「話してくれて、ありがとう」
その背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。
胸の奥に残ったあたたかさは、言葉にならないまま、しかし消えなかった。
——きっとあの日、彼が話せたのは、魔法なんかじゃない。
終わりの中で、やっと始められる言葉がある。
私は胸のリボンをそっと握りしめ、静かに息を吸った。
次に会えたとき、今度は私から話しかけよう。
卒業式じゃなくても。


