光の海の約束

面白い

冬の空気は、指先を軽く刺すように冷たかった。
それでも紗菜は、マフラーの中に吐いた白い息を見つめながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
駅前の並木道に、一つ、また一つと灯りがともり始めている。
まだ完全には暗くなりきらない紺色の空を背景に、小さな光が枝先を飾り、夜の訪れをやさしく迎えていた。

毎年この季節になると、街は一変する。
昼間は見慣れた商店街も、夕方になると光の川のような通りへと姿を変える。
ガラス越しのケーキ屋の灯り、道端で鳴る金色のベル、行き交う人々の笑い声。
それらがすべて、まるで一枚の絵の中に溶け込んでいくようだった。

紗菜は、ゆっくりと並木道を歩いた。
頭上では無数の光が星座のように連なり、足元にはそれが淡く反射している。
アスファルトさえも柔らかく輝いて見えた。
ふと、幼い頃の記憶が胸によみがえる。
父と母に手を引かれ、同じ道を歩いた冬の夜。
手袋の中の小さな手は、あのときよりずっと大きくなったけれど、光の美しさに息をのむ感覚は、何も変わっていない。

広場に出ると、大きな一本の木が立っていた。
無数のイルミネーションが絡みつき、まるで木そのものが光でできているかのようだった。
色とりどりの灯りは瞬き、ゆるやかに波打ちながら、見る者の心を包み込む。
木の根元には、小さなベンチ。
紗菜はそこに腰を下ろし、空を仰いだ。
星は少なかったが、代わりに枝という枝からこぼれる光が、空の代わりに輝いていた。

「きれいだね」

隣のベンチに座った老夫婦が、小さな声で言った。
手をつないだまま光を見上げている。
言葉はそれきりだったが、その背中から伝わるやわらかさに、紗菜の胸はふっとほどけた。
イルミネーションは単なる飾りではない。
誰かの記憶を照らし、誰かの今をやさしく包み、誰かのこれからをそっと背中から押すものなのだと、そんな気がした。

ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面には短いメッセージがひとつ。

――会えないけれど、今年も見に行ってると思って。

遠くの街にいる友人からだった。
去年、二人で同じ木を見上げた夜のことを思い出す。
肩を並べて笑い合った時間は、光に照らされるように鮮やかだった。
今は離れていても、同じ季節に同じ光を思い浮かべている。
それだけで、距離は不思議と縮まっていく。

紗菜は、そっと返信を打った。

――うん。ちゃんと見てるよ。あなたの分まで。

送信して顔を上げると、光は先ほどより一層強く輝いて見えた。
風が枝を揺らし、光の粒がさらさらと流れる。
夜のはじまりを告げる鐘の音が遠くで響いた。
街全体が、静かに呼吸しているようだった。

紗菜は立ち上がり、もう一度並木道を歩いた。
光のトンネルの中を通り抜けるたび、心の中の影が少しずつほどけていく。
寂しさも、迷いも、完全には消えない。
それでも、灯りは足元を照らし続けてくれる。
ここからどこへ向かうのかはまだわからない。
それでも歩いてみたいと思えるだけで、今夜の光には意味があった。

最後に振り返ると、広場の大きな木が、静かに手を振るように瞬いていた。
空気は冷たいままだったが、胸の奥にはたしかな温もりがあった。
紗菜はマフラーをきゅっと結び直し、白い息をひとつ吐いた。

光の海に包まれた街は、まるで「大丈夫」と囁くように輝き続けていた。