針音がつなぐ、やさしい時間

面白い

町の外れに、小さなアパートがあった。
二階の角部屋に住む佐和子は、ミシンで縫い物をするのが何より好きな人だった。
休日の朝、カーテン越しの光が差し込むと、彼女はまずミシン台のほこりを払う。
電源を入れ、布を整え、静かにペダルを踏む。
その瞬間に響く規則正しい音が、佐和子の一日を始める合図だった。

子どもの頃、祖母の家で初めてミシンに触れた。
古い足踏みミシンで、祖母はゆっくりとした手つきでエプロンや雑巾を縫っていた。
「布はね、触ると気持ちがわかるのよ」と言いながら、祖母は布を撫でるように扱っていた。
その姿が忘れられず、佐和子は大人になった今も、布を選ぶとき必ず指先で感触を確かめる。

佐和子は服を売る仕事も、華やかなデザインの世界にも進まなかった。
ただ、誰かの日常に寄り添うものを縫いたかった。
近所の人から頼まれる裾直し、壊れたトートバッグの持ち手、入園前の小さな巾着袋。
報酬はささやかだが、完成品を渡すときの「ありがとう」が、彼女には何よりのご褒美だった。

ある雨の日、ドアをノックする音がした。
立っていたのは、同じ階に住む少年と母親だった。
少年はお気に入りのぬいぐるみを抱えているが、腕の縫い目が大きく裂けている。
「直せますか」と不安そうに聞く母親に、佐和子は微笑んでうなずいた。
布の色を合わせ、糸を選び、ゆっくりと縫い進める。
ミシンの音は雨音と混ざり、部屋は不思議な静けさに包まれた。

修理が終わると、少年はぬいぐるみを抱きしめ、ぱっと顔を明るくした。
「前より強くなったみたい」と言う。
その一言に、佐和子の胸はじんと温かくなった。
縫い物は、壊れたものを元に戻すだけではない。
そこに込められた時間や思いも、一緒につなぎ直すのだと、改めて感じた。

夜、ミシンの電源を切ると、部屋は静まり返る。
けれど佐和子の心には、今日縫った布の感触や、人の笑顔が残っている。
完璧でなくてもいい。
真っ直ぐでなくてもいい。
針が進んだ跡は、そのまま生きた証になる。

窓の外では雨が上がり、街灯が濡れた道を照らしていた。
佐和子は新しい布を棚から取り出し、そっと机に置く。
明日は何を縫おうか。
ミシンのそばで考えるその時間こそが、彼女にとって一番大切な、縫い目のない幸せだった。