掌の庭 ― 手の記憶をやさしく包む店 ―

面白い

冬のはじまり、古い商店街の裏通りに「掌(てのひら)の庭」という小さなハンドクリーム専門店があった。
看板は控えめで、気づかずに通り過ぎてしまう人も多い。
それでも扉を開けると、ほのかに甘く、どこか懐かしい香りが迎えてくれる。

店主のミサキは、毎朝いちばんに店の奥で小さな鍋を火にかける。
シアバターや植物オイル、花から抽出した精油を少しずつ混ぜ、木べらで静かにかき混ぜる。
その所作は祈りに似ていて、急がない。
彼女は言う。
「手は、その人の時間を覚えているから」と。

客はさまざまだ。
水仕事で荒れた指先を隠す主婦、絵の具の跡が残る学生、書類をめくり続ける会社員。
ミサキは手を見せてもらい、話を聞く。
乾燥の度合い、香りの好み、眠る前に塗るか、仕事の合間に使うか。
会話のなかで、笑い声が溶けていく。

ある日、毎週同じ時間に訪れる老人がいた。
無香料を選び、決まって少量だけ買う。
ミサキが理由を尋ねると、彼は照れたように答えた。
「妻が香りに敏感でね。でも、手をつなぐときは、やっぱりやさしくしておきたい」。
その言葉に、店の空気が少しあたたかくなった。

「掌の庭」には試し塗りの机があり、窓辺の光が指先を照らす。
クリームをなじませると、肌が息をするようにしっとりする。
客は皆、帰るころには肩の力が抜けている。
ミサキはレシートと一緒に、手書きの小さなカードを渡す。
「今日は、よくがんばりました」。

閉店後、ミサキは棚を整え、鍋を洗い、最後に自分の手にクリームを塗る。
かつて彼女も、忙しさに追われ、手の荒れを気にする余裕がなかった。
だからこそ、この店を作った。
誰かが自分の手を大切にする、その最初のきっかけになれたらいい。

夜、商店街の灯りが消えても、「掌の庭」は静かに息づく。
明日もまた、誰かの時間を覚えた手が、ここで少し休むだろう。