溶けるまでの一歩

面白い

冬のはじまり、町外れの小さな公園で、一つの雪だるまが生まれた。
丸い胴体に少し曲がった鼻、煤で描かれたにこやかな目。
名はまだない。
けれど、夜明け前の静けさの中で、彼はふと「歩いてみたい」と思った。

月が雲に隠れた瞬間、冷たい風が吹き抜ける。
雪だるまは驚きながらも、そっと足を動かした。
ぎこちなく、けれど確かに前へ進む。
氷のような道を抜け、公園の柵を越えると、白い世界はどこまでも続いていた。

最初に出会ったのは、夜更かしの野良猫だった。
猫は雪だるまを見上げ、ひげを震わせる。
「溶ける前に、見たいものを見ておくんだね」。
その言葉は、胸の奥に小さな火を灯した。
雪だるまは頷き、町へ向かった。

パン屋の窓からは、温かな灯りと甘い匂いが漏れていた。
中では人々が笑い、朝の準備をしている。
触れられない温もりに、雪だるまは少しだけ寂しくなった。
けれど、初めて見る世界の色に、胸は高鳴る。

橋の上では、川が静かに流れていた。
凍りきらない水面が、星を映して揺れる。
「流れるって、どんな気持ちだろう」。
雪だるまは川に問いかける。
答えは返らないが、流れは止まらない。
それが、冒険の意味のように思えた。

森の入口で、フクロウが羽を広げた。
「日の出は近い」。
その一言に、雪だるまは自分の体が少しずつ柔らかくなるのを感じる。
終わりが近いことも、なぜか怖くはなかった。

丘の上に着いたとき、東の空が淡く染まり始めた。
町、川、森――歩いてきた道が、白い光の中に浮かび上がる。
雪だるまは最後の力で笑顔をつくった。
「見たかったんだ、この世界を」。

太陽が顔を出すと、彼は静かに溶け始めた。
鼻が落ち、目がにじみ、やがて形は消える。
けれど、丘には小さな水たまりが残り、空を映してきらめいた。

その冬、町の人々は時折、その丘で不思議な輝きを見たという。
まるで、誰かが冒険の続きを、そっと語りかけてくるかのように。