湯気の向こうの甘み

食べ物

冬の台所には、静かな湯気が立ちのぼっていた。
鍋の中でコトコトと鳴るのは水ではない。
網の上に並べられた野菜たちが、ゆっくりと蒸される音だった。

この家の主人、七十を過ぎた早苗は、揚げ物も濃い味付けも、いつの間にか作らなくなっていた。
若い頃は、家族のために手の込んだ料理を並べるのが誇りだったが、今は違う。
大切なのは、体に負担をかけず、それでも心が満たされること。
その答えが、蒸し野菜だった。

かぼちゃ、にんじん、ブロッコリー、れんこん。
包丁で切るときの感触だけで、野菜の元気がわかる。
早苗はそれを確かめるように、ひとつひとつ丁寧に並べた。
塩も油も、まだ使わない。
鍋に蓋をして、あとは待つだけだ。

湯気が立ち上がる頃、台所は不思議と温かい空気に包まれた。
蒸される野菜の甘い香りは、調味料を使っていないのに、どこか懐かしい。
早苗はその香りに、昔の記憶を重ねていた。

子どもたちがまだ小さかった頃、仕事に追われ、食卓はいつも慌ただしかった。
味の濃いおかずで、ごはんをかきこむように食べさせていた日々。
あの頃は、それが当たり前だと思っていた。

やがて蓋を開けると、野菜は色鮮やかに、ふっくらと湯気をまとっていた。
竹串を刺すと、すっと通る。
早苗は小さくうなずき、皿に盛りつけた。

味付けは、ほんのひとつまみの塩と、気分で味噌だれか、ごまをすったもの。
今日は何もつけず、そのまま一口かじった。
かぼちゃの自然な甘みが、じんわりと舌に広がる。

「こんなに甘かったかしら」

思わず笑みがこぼれる。
蒸すだけで、野菜は余計なものを削ぎ落とし、自分の力を思い出すのだと、早苗は思った。

夕方、久しぶりに娘が孫を連れて訪ねてきた。
食卓に並んだ蒸し野菜を見て、娘は少し驚いた顔をしたが、孫は迷わず手を伸ばした。

「おいしい!」

その一言で、早苗の胸は温かく満たされた。
派手ではない。特別な技もない。
それでも、蒸し野菜は、体と心をゆっくり整え、人と人を静かにつないでいく。

湯気の向こうで、早苗は思う。
人生もまた、こうしてじっくり蒸されることで、本当の味が現れるのかもしれない、と。