深い山の奥、白い雪がしんしんと降り積もる静かな谷に、一本の若いモミの木が立っていた。
まだ背は高くなく、枝も細い。
それでも冬の星空の下で、凛とした輪郭を保ち、冷たい風にも折れずに揺れていた。
この谷の木々には、昔からひとつの言い伝えがあった。
「人の願いをひとつだけ叶えるモミの木が、どこかに立っている」というものだ。
どの木のことを指すのか誰も知らない。
ただ、雪が深い夜になると、かすかに光を放つ木があるらしい。
若いモミの木も、この話を風から聞いたことがあった。
「いつか自分も、誰かの願いを叶えられるだろうか」
そう思うと胸の奥がふわりと温かくなった。
だが同時に、自分にそんな力があるのかという不安も抱いていた。
ある夜のこと。雪を踏みしめる小さな足音が谷に近づいてきた。
赤いマフラーを巻いた少女だった。
頬は凍えるように赤く、指先も真っ白だ。
それでも彼女は息を吐きながら、一歩ずつ若いモミの木の前に進んできた。
少女はモミの木の幹にそっと触れ、呟いた。
「どうか、私のお母さんを助けてください。病気で寝たきりなんです。少しでも元気になりますように……」
モミの木は驚いた。
自分が願いを叶える木だと思われているらしい。
しかし、どうすれば願いを叶えられるのか分からない。
枝先は震え、雪がさらさらと落ちた。
少女は更に続けた。
「みんな、あなたが願いを叶えてくれるって言ってたの。だから私、どうしても来たかったの」
その言葉には迷いも嘘もなかった。
純粋な願いだけが静かに積もっていた。
モミの木は必死に考えた。
自分はただの木だ。
歩くことも喋ることもできない。
それでも何かできることがあるはずだ。
星空を見上げると、ひときわ強い光を放つ流れ星が尾を引いていった。
その瞬間、モミの木の胸の奥で何かが微かにきらめいた。
――自分の光を、分けよう。
そんな声なき決意が芽生えたのだ。
モミの木は体の中に秘めていた、わずかな温もりを枝先へと送り込んだ。
すると、枝に積もった雪が淡い光を帯び、まるで星屑が舞うように輝きはじめた。
少女は驚いて目を見開いた。
「キレイ……こんなの、見たことない……!」
光は雪の夜気を通り抜け、谷全体に広がってゆく。
やがて村に届き、病室の窓をぼんやり照らした。
少女の母はその光に気づき、弱々しくも瞳を開いた。
不思議と胸が温かくなり、呼吸が少し楽になった。
翌朝、少女の母は前よりもずっと楽な表情で目を覚ました。
医者も首をかしげるほど回復が早かったという。
少女はすぐに山へ駆け上がり、モミの木の前で笑顔を見せた。
「ありがとう! 本当にありがとう!」
モミの木は答えられないが、その言葉だけで枝先が震えるほど嬉しかった。
どんな華やかな装飾より、どんな大きな樹より、この瞬間が誇らしかった。
その日から、モミの木は“願いを叶える木”として谷に知られるようになった。
しかしモミの木自身は気づいている。
力を持っていたのではなく、誰かの願いに応えたいという想いが、光を生んだのだということを。
冬の夜が再び訪れるたび、モミの木はそっと微笑む。
雪の中で小さく光りながら、「いつでも願いを聞くよ」と静かに語りかけているように。


