夕方の体育館には、ピンポン球の軽やかな音が響いていた。
「カン、カン、コツン。」
その規則的なリズムに耳を澄ませているのは、中学一年生の結城凛。
小柄で物静かな彼女は、春から卓球部に入ったものの、まだ一度も公式試合に出たことがなかった。
理由は簡単だ。
——サーブが、どうしても入らない。
部活仲間は皆、優しく声を掛けてくれるが、凛は自分の不器用さに引け目を感じていた。
そんな彼女に、ある日、新しい風が吹き込む。
「入部希望の一年、神崎颯です!」
体育館いっぱいに響くような声。
凛とは対照的に背が高く、明るい笑顔を浮かべる少年だった。
颯は小学生時代から卓球をしており、経験者としてあっという間に注目の的となった。
「結城さん、ラリーしようよ!」
颯に話しかけられ、凛は驚いた。
上手い人は、うまくない自分には興味を持たないと思っていたからだ。
恐る恐るラケットを握り、向かい合う。
颯の打つボールは強すぎず、弱すぎず、まるで凛に合わせるように優しい軌道を描く。
「すごいじゃん、ちゃんと返せてる!」
褒められて、凛の胸が少し温かくなった。
それから、二人は放課後になると自然に同じ台に立つようになった。
颯は凛のフォームを細かく見てくれて、ミスしても責めず、できたことを必ず言葉にしてくれた。
凛は少しずつ自分の動きに自信を持ちはじめ、ついにサーブが安定するようになる。
やがて、夏の新人戦がやってきた。
部内の代表決めのトーナメント。
凛は初めてエントリー用紙に自分の名前を書いた。
手の震えが止まらなかった。
「大丈夫。練習した分だけ、ちゃんと動けるよ。」
颯が笑ってくれた。
その一言だけで胸が軽くなる。
試合が始まると、凛は緊張で体が硬くなった。
サーブミス。
返球も浅くなり、相手に強烈なスマッシュを打たれる。
——やっぱり無理だよ……。
薄く涙がにじむ。
そのとき、観客席の端で颯が大きく手を振った。
まるで「大丈夫」と言っているかのように。
凛は深く息を吸った。
手のひらに残る練習の感触を思い出す。
「できる」じゃなくて、「やってきた」感触。
その手で、もう一度サーブを握りしめた。
トスは高く、軌道は真っすぐ。
——入った。
そこから凛の動きは変わった。
相手の球をよく見て、足で調整し、ラケット面に集中する。
返球がつながり、ラリーが生まれる。
観客席からどよめきが起こる。
凛の表情は、いつの間にか必死から楽しさへと変わっていた。
結果、試合はぎりぎりのスコアで敗れた。
だが、凛の心は不思議と軽かった。
負けたのに、悔しいより嬉しい気持ちが大きかった。
試合後、颯が駆け寄ってくる。
「めちゃくちゃ良かったよ! 今日の結城さん、すごかった。」
「……ありがとう。颯くんが練習してくれたからだよ。」
「俺より、結城さんの頑張りでしょ。」
その日、体育館に沈む夕陽の中、凛は初めて卓球が“好きだ”と心から思えた。
ピンポン球の音が、前よりずっと遠くまで響いて聞こえた。

