古い学生アパートに引っ越してきて三日目、僕は初めてその“異変”に気づいた。
夕飯のカップ麺をすすりながら、ふと壁に映る自分の影を見た。
薄暗い部屋の蛍光灯に照らされているだけの、ただの影――のはずだった。
ところが影は、僕とは違う動きをした。
僕が箸を持ち上げるより、一瞬早く、影の腕がぬるりと動いたのだ。
「……見間違い、だよな?」
目をこすって再度壁を見る。
今度は僕の動きと完全に一致している。
ほっと息をついたが、胸の奥に小さな違和感が残った。
その夜、寝ようと布団に入ったとき、隣の部屋から人の気配がした。
――カリ、カリ、カリ。
壁を何かで引っかくような音。
だが大家は、隣は空室だと言っていた。
音は一晩中続いた。
◆
翌日の夜、僕は勇気を出して隣の部屋のドアをノックした。
もちろん返事はない。
試しにドアノブを回すと――鍵が開いていた。
「……うそだろ」
恐る恐る中を覗くと、ほこりの匂いがむっと鼻を突く。
家具は何もない。空っぽの部屋の中央に、黒いシミのようなものが広がっていた。
よく見ると、それは“影”だった。
人の影のように見えるが、部屋のどこにも光源はない。
あり得ない方向に、べったりと横たわっている。
急に寒気が走り、僕は逃げるように自室へ戻った。
◆
その夜は寝つけなかった。
蛍光灯を消すのが怖い。
だが電気をつけっぱなしでは眠れない。
覚悟を決めて部屋を暗くした瞬間だった。
壁の方から、ゆっくりと何かが動く音がした。
――ズ……ズ……ズ……
恐る恐る目を開けると、壁一面に巨大な影が貼りついていた。
それは僕の影の形をしているようで、まったく違う。
腕は異様に長く、指は壁の床近くまで伸びている。
顔の位置には、ぽっかりと穴のような“何か”があった。
僕が息を呑むと同時に、影の頭がぎしぎしと音を立ててこちらを向いた。
「お前……なんだよ」
声は震えていた。
影は僕の言葉に答えない。
ただ、ゆっくり、あくびをするようにその穴を開いた。
――カリ、カリ、カリ。
あの隣室の音だ。
影は腕を持ち上げた。
僕が昨日見た、あの黒い影のシミが、まるで生き物のように壁を這い寄ってくる。
逃げなければ――と思ったのに、身体が動かない。
◆
翌朝、僕は布団の中で目を覚ました。
昨夜の記憶はぼんやりしている。
悪夢を見たのだと思い込もうとしたが、部屋の隅に目を向けて息を呑んだ。
そこには僕の影が、ひとつ余計にあった。
部屋の中央に、本来の影とは別の“もう一つの影”が立っている。
その影は、僕が動いてもピクリとも動かない。
ただ静かに、こちらを見ているように立っていた。
「……やめろよ」
部屋の温度が急に下がった。
影がじわじわと広がり、僕の足元へ伸びてくる。
慌てて後退るが、壁に背中がぶつかった。
影が僕の足首に触れた瞬間――周囲の光が突然落ちた。
薄暗い部屋に、乾いた声が響く。
――カエセ。
◆
その日以来、僕は鏡をまともに見ることができない。
いつだって僕の背後には、もう一人の“僕の影”が映り込むからだ。
動かないくせに、少しずつ距離を詰めてくる。
そして今――鏡の中の影は、僕の肩に指をかけている。


