影写しの部屋

ホラー

古い学生アパートに引っ越してきて三日目、僕は初めてその“異変”に気づいた。

夕飯のカップ麺をすすりながら、ふと壁に映る自分の影を見た。
薄暗い部屋の蛍光灯に照らされているだけの、ただの影――のはずだった。

ところが影は、僕とは違う動きをした。
僕が箸を持ち上げるより、一瞬早く、影の腕がぬるりと動いたのだ。

「……見間違い、だよな?」

目をこすって再度壁を見る。
今度は僕の動きと完全に一致している。
ほっと息をついたが、胸の奥に小さな違和感が残った。

その夜、寝ようと布団に入ったとき、隣の部屋から人の気配がした。

――カリ、カリ、カリ。

壁を何かで引っかくような音。
だが大家は、隣は空室だと言っていた。

音は一晩中続いた。

翌日の夜、僕は勇気を出して隣の部屋のドアをノックした。
もちろん返事はない。
試しにドアノブを回すと――鍵が開いていた。

「……うそだろ」

恐る恐る中を覗くと、ほこりの匂いがむっと鼻を突く。
家具は何もない。空っぽの部屋の中央に、黒いシミのようなものが広がっていた。

よく見ると、それは“影”だった。
人の影のように見えるが、部屋のどこにも光源はない。
あり得ない方向に、べったりと横たわっている。

急に寒気が走り、僕は逃げるように自室へ戻った。

その夜は寝つけなかった。
蛍光灯を消すのが怖い。
だが電気をつけっぱなしでは眠れない。

覚悟を決めて部屋を暗くした瞬間だった。

壁の方から、ゆっくりと何かが動く音がした。

――ズ……ズ……ズ……

恐る恐る目を開けると、壁一面に巨大な影が貼りついていた。
それは僕の影の形をしているようで、まったく違う。

腕は異様に長く、指は壁の床近くまで伸びている。
顔の位置には、ぽっかりと穴のような“何か”があった。

僕が息を呑むと同時に、影の頭がぎしぎしと音を立ててこちらを向いた。

「お前……なんだよ」

声は震えていた。
影は僕の言葉に答えない。
ただ、ゆっくり、あくびをするようにその穴を開いた。

――カリ、カリ、カリ。

あの隣室の音だ。

影は腕を持ち上げた。
僕が昨日見た、あの黒い影のシミが、まるで生き物のように壁を這い寄ってくる。

逃げなければ――と思ったのに、身体が動かない。

翌朝、僕は布団の中で目を覚ました。
昨夜の記憶はぼんやりしている。
悪夢を見たのだと思い込もうとしたが、部屋の隅に目を向けて息を呑んだ。

そこには僕の影が、ひとつ余計にあった。

部屋の中央に、本来の影とは別の“もう一つの影”が立っている。

その影は、僕が動いてもピクリとも動かない。
ただ静かに、こちらを見ているように立っていた。

「……やめろよ」

部屋の温度が急に下がった。
影がじわじわと広がり、僕の足元へ伸びてくる。
慌てて後退るが、壁に背中がぶつかった。

影が僕の足首に触れた瞬間――周囲の光が突然落ちた。

薄暗い部屋に、乾いた声が響く。

――カエセ。

その日以来、僕は鏡をまともに見ることができない。
いつだって僕の背後には、もう一人の“僕の影”が映り込むからだ。

動かないくせに、少しずつ距離を詰めてくる。

そして今――鏡の中の影は、僕の肩に指をかけている。