深夜二時。都会の駅ビルはほとんどの明かりを落とし、わずかに残った非常灯が濁った光を床に落としていた。
終電を逃してしまった私は、仕方なく駅のベンチで時間をつぶそうとしていた。
と、そのとき――スピーカーから、かすれたアナウンスが流れた。
「……お忘れ物をお預かりしています。……北口階段横の“落とし物センター”まで……お越しください」
そんな場所、あっただろうか?
北口階段には古い倉庫のような扉があるだけで、普段は閉ざされているはずだ。
日中は警備員が立ち入り禁止の看板を出していた記憶もある。
けれどその夜に限って、扉の隙間から薄い光が漏れていた。
好奇心と、少しの不安と、夜の奇妙な空気に背中を押され、私はゆっくり扉を押した。
扉の向こうに広がっていたのは、まるで昔の役所のような薄暗い部屋だった。
裸電球が一つ、ぶら下がっているだけ。
部屋の奥のカウンターには、黒い制服を着た職員らしき人物がうつむいて座っている。
「遅くにすみません……アナウンスを聞いて来たんですが」
声をかけると、ゆっくりと顔が上がった。
――真っ白だ。
目鼻立ちはあるものの、蝋細工のように血色がない。
その職員は、機械的な無表情で私を見つめた。
「お忘れ物をお持ちしました」
低い声が響き、カウンターの上に、小さな木箱が置かれた。
古びていて、細い赤い紐がかけられている。
「これは……?」
「“あなたが落としたもの”です」
心当たりはない。
だが、その言い切る声には妙な圧力があった。
「開けても……いいんですか?」
「ここでは開けないほうがいいでしょう」
職員はわずかに首を振った。
「受け取るかどうかは、あなたが選んでください。ただし……受け取らなかった場合、“本当に落としてしまう”ことになります」
意味がわからない。
けれど、その言葉は胸の奥に冷たい指を滑り込ませるように響いた。
私は、気づいたら木箱に手を伸ばしていた。
指が触れた瞬間、部屋の明かりがふっと暗くなった。
職員は静かに言った。
「お返ししました。お気をつけて、お帰りください」
駅を出て、人気のない街を歩きながら、私は何度も木箱を見つめた。
とても軽い。
中身の重さを感じない。
「帰ったら開けてみようか……」
自分にそう言い聞かせるようにつぶやいた。
自宅につき、明かりをつける。
部屋はいつも通り。
木箱をテーブルの上に置き、私は深呼吸した。
紐を解き、そっと蓋を開ける。
――中には、一枚の紙切れ。
そこには、震える字でこう書かれていた。
『これは二時二分に落とします。気をつけて。』
時計を見る。
時刻は 二時一分。
え……?
次の瞬間、部屋の照明がバチンと音を立てて消えた。
玄関のほうで、何かが落ちるような大きな音が響いた。
心臓が締め付けられるほど跳ね上がる。
震える足で玄関へ近づく。
暗闇の中で、落ちていたのは――
私の鍵束だった。
いつもバッグの奥に入れていたはずのものが、まるで誰かがわざと置いたかのように、玄関マットの上に落ちている。
ぞわりと背筋を冷たいものが走る。
あの職員は言った――
“受け取らなかったら、本当に落とす”。
受け取らなければ、鍵だけで済んだのだろうか。
それとも、もっと大切な何かを“落としていた”のだろうか。
夜明け近く、私は震える手で木箱をゴミ袋に入れたが、捨てる勇気は出なかった。
今も押し入れの奥にしまっている。
木箱は時々、深夜二時になると、ひとりでに“カタッ”と音を立てる。
まるで――
“まだ何か、落としてますよ”
と知らせるかのように。

