東京の下町に、古びた木造アパートがある。
そこに住む一人の青年、青山遥人は、筋金入りの“マスタード好き”として近所でちょっと有名だった。
きっかけは小学生の頃。
父がつくってくれたホットドッグに、ほんの少しだけ粒マスタードがかかっていた。
口に入れた瞬間、鼻に抜ける刺激、舌に残る深い香り、そして後からじんわり湧いてくる甘味――あの衝撃が忘れられず、遥人はその日以来ずっとマスタードに心をつかまれてしまったのだ。
大学を卒業して食品会社に就職したが、どこかしっくりこない毎日。
本当にやりたいことは何なのか、悩みながら働くうちに、気づけば彼の部屋には世界中のマスタード瓶がぎっしりと並ぶようになっていた。
フランスのディジョン、ドイツの甘口、アメリカのイエローマスタード、そして日本各地の地元メーカーのものまで、あらゆる種類を集め、休日にはひたすら味比べをしていた。
そんなある日、会社帰りに寄った小さな商店街の一角で、ふとした看板が目に止まった。
「間借りスペース募集 小商い歓迎」
心臓が大きく跳ねた。
――自分のマスタードで、なにかできないだろうか。
その夜、遥人は眠れなかった。
頭の中には、マスタードと相性の良い料理の数々が浮かび、子どものように胸が高鳴った。
そして決意した。
「マスタード専門のホットスナック屋」をやる、と。
翌週、間借りスペースを借り、仕事の合間に試作を重ねた。
ポテトに絡めるハニーマスタード、粗挽きソーセージに合わせるホットマスタード、カリッと焼いたチキンに添えるレモンマスタードソース。
友人に試食してもらいながら改良を重ねるうちに、遥人はいつしか会社でも上の空になっていた。
初日、店の名前は迷いに迷って「Mustard Spoon」とした。
小さな屋台のような店で、メニューは三つだけ。
それでも開店の瞬間、遥人の手は震えていた。
最初の一人のお客さんは、近所の小学生だった。
ソースの瓶を興味深そうに眺めながら言った。
「これ、辛い?」
「ちょっとだけね。でも甘いのもあるよ」
彼が選んだのはハニーマスタードポテト。
ひと口食べて、ぱっと笑顔が咲いた。
「おいしい!」
その言葉は遥人の胸に深く刺さった。
それは、会社でどんなに努力しても決して得られなかった種類の喜びだった。
あっという間にSNSで評判が広がり、休日には行列ができるように。
中でも人気だったのは、遥人が自分の原点として作った「クラシック・ホットドッグ」。
父が作ってくれた味を、今の自分なりに再現した一品だ。
ある日、開店前にひとりの男性が声をかけてきた。
「ここが、息子がよく行く店ですか?」
その顔を見た瞬間、遥人は息を呑んだ。
「……父さん?」
偶然ではなく、息子がネットで見つけて「この店おいしいよ」と言ったらしい。
二人で向かい合ってホットドッグを食べると、父は少し照れくさそうに笑った。
「お前、とうとうやったな」
その一言に、ずっと胸につかえていたものがすっと消えた。
気づけば、遥人の店は「マスタードが苦手だったのにここでは食べられる」という人が増え、地元の名物になっていた。
刺激のある味なのに、不思議と人の心を引き寄せ、笑顔に変える力――それはまるで、遥人自身の人生を象徴しているようだった。
黄色い一匙の魔法を信じて、一歩を踏み出した青年の小さな店は、今日も湯気と香りを街に広げている。


