海に近い丘の上に、ひっそりと佇む古い灯台があった。
いまでは灯りをともすこともなく、観光客が時折写真を撮りに来るだけの静かな場所。
しかし、その足元には毎年春になると白や薄紫の小さな花が、一面に広がって咲き誇る。
その花こそ、アリッサムだった。
丘のふもとの村に住む少女・ミナは、アリッサムが大好きだった。
風が吹くたびにふわりと揺れ、甘い香りを運んでくれる。
小さいけれど力強く、群れるように咲き続けるその姿には、不思議な温かさがあった。
ミナがアリッサムを好きになったのは、亡くなった祖母がいつも言っていた言葉がきっかけだった。
「アリッサムはね、風に名前をつける花なんだよ」
子どもだったミナは首を傾げた。
風に名前なんて、どういうことだろう。
祖母は優しく笑って続けた。
「風が吹いて花が揺れるでしょう。その揺れ方でね、その日その時の風の性格がわかるんだよ。優しいのか、寂しいのか、嬉しいのか。アリッサムはその全部を教えてくれるのさ」
ミナはその話が大好きで、祖母が亡くなったあとも、灯台の丘へ通い続けた。
祖母が言う風の名前を探すように、アリッサムのうねる花畑にそっと手を伸ばすのが、いつのまにか日課になっていた。
ある春の朝、ミナはいつものように灯台へ向かった。
海を渡る風が心地よく、アリッサムの香りが道のあちこちに漂っていた。
だが、丘に着くとミナは目を見開いた。
灯台の周りに、見慣れない青年が立っていたのだ。
旅人のようで、少し埃をかぶった鞄を持っている。
青年はアリッサムをじっと見つめていて、ミナに気づくと驚いたように振り向いた。
「あ、ごめん。勝手に入っちゃったかな?」
「いえ、ここは誰でも来ていい場所です。私、よく来るので」
ミナが笑うと、青年もほっとしたように息をついた。
「僕、海沿いを旅しててね。ここに花が広がっていると聞いて来たんだ。こんなに綺麗だとは思わなかった」
ミナは嬉しくなった。
アリッサムの良さを誰かと共有するのは久しぶりだった。
「この花、アリッサムっていうんです。風に名前をつける花なんですよ」
つい祖母の言葉を口にすると、青年は興味深そうに首を傾げた。
「風に、名前?」
「はい。風が吹くたびに、花がどんなふうに揺れるかで、その日その風の気持ちがわかるんです。今日の風は……優しそう」
ミナがそっと花に触れると、アリッサムは穏やかな波のように揺れた。
青年はその様子をまじまじと見つめた。
「そんなふうに風を感じたこと、なかったな。でも……なんとなくわかる気がするよ」
青年はそう言い、海を見下ろした。
どこか遠い目をしているのがミナには気になった。
「旅をしているんですよね。どこまで行くんですか?」
「うーん、まだ決めてなくてね。何かを探してる途中なんだと思う。なくしたものか、これから見つけたいものか……自分でもよくわからない」
ミナはアリッサムの香りを胸いっぱいに吸い込みながら、そっと言った。
「じゃあ、ここで名前をつけていきませんか? あなたの風に」
青年は驚いたようにミナを見つめた後、ゆっくり笑った。
「……面白いね。じゃあ、今日の風は『始まりの風』って名前にしようかな」
ミナも笑った。
アリッサムが揺れ、まるで祝福するように白い小花が波のように広がった。
それから数日、青年は丘に通い、ミナと話をした。
旅の思い出、見た景色、そしてこれからのこと。
ふたりの間に、アリッサムの香りと風が静かに流れていった。
ある日、青年は灯台を見上げながら言った。
「そろそろ、また旅に出ようと思う。ここで風に名前をつけて、少しわかった気がするんだ。探してるものに、ちゃんと向き合ってみるよ」
ミナは寂しさを感じながらも、笑って頷いた。
「また来てくださいね。アリッサムの季節じゃなくても、風はいつでもいますから」
青年は手を振り、海沿いの道へと歩き出した。
その背中に、アリッサムの花がさざ波のように揺れ、やさしい風がそっと吹いた。
ミナは花畑の真ん中に立ち、目を閉じた。
今日の風は——
「……旅立ちの風、だね」
アリッサムは柔らかく揺れ、少女の言葉を確かに受け止めるように、静かに香りを広げた。


