潮の上で握る一瞬(ひととき)

食べ物

銀座の外れに、小さな寿司屋「潮(うしお)」がある。
看板は控えめで、通りすがりには気づかれないほどだが、暖簾をくぐった者は誰もが「ここには特別な空気がある」と感じるという。
その店を切り盛りするのは、六十五歳の寿司職人・村岡海斗(むらおか かいと)。
白髪が混じった髪をきっちりまとめ、細い目の奥には、海と向き合ってきた長い年月が宿っている。

海斗には、一つのこだわりがあった。
「握る寿司一貫は、お客の人生の一瞬に寄り添う一貫であれ」というものだ。
たとえば、仕事で落ち込んだ客には、脂ののった中トロを小さめに切り、口に広がる旨みが心をほぐすように。
祝い事の客には、縁起の良い赤身と季節の白身を交互に出し、喜びが重なるように。
そんな海斗の寿司には、言葉以上の温度があった。

ある雨の日の夜、「潮」の戸が静かに開いた。
傘を畳みながら入ってきたのは、二十代半ばの女性・紗月(さつき)。
どこか疲れの滲む目をしていた。
「いらっしゃい」
海斗が声をかけると、紗月は小さく会釈し、カウンターの端に座った。
「おまかせで……お願いします」
その声は少し震えていた。

海斗はうなずき、まずは白身の平目を薄く引いた。
雨に濡れたような透き通った身を握り、静かに差し出す。
「どうぞ。今日の海みたいな一貫だ」
紗月は驚いたように目を瞬かせた。
口に運ぶと、身の甘みとほんのり効いた昆布締めの香りがふわりと広がる。
「……優しい味ですね」
その言葉には、少しだけ涙の気配が混じっていた。

続いて海斗は、赤貝、鯵、煮穴子とテンポよく握りながら、客に話しかけるでもなく、黙り込むでもない、絶妙な距離感を保った。
やがて紗月は、ぽつりと口を開いた。
「今日……仕事で、大失敗しちゃって。怒られてばかりで、自分が何もできない気がして」
海斗は手を止めず、次のネタを切りながら言った。
「海はな、荒れる日もあれば、凪ぐ日もある。荒れた時にどう立て直すかで船の腕が決まるんだ」
その言葉は、まるで長年海を見つめてきた人だけが持つ静かな説得力を含んでいた。

海斗が差し出した次の一貫は、光を反射するような美しいコハダだった。
「これはね、手間がかかる。
締めすぎてもだめ、浅すぎてもだめ。
手間を惜しまないことで、ようやく一人前の味になる」
紗月はコハダを口に運び、噛むごとにほどける酸味と旨みに思わず目を閉じた。
「……私、もっとがんばってみます」
「無理に強がらんでいい。でもな、ひとつひとつ丁寧に積み重ねていけば、必ず味になる」

最後に海斗が握ったのは、鮮やかな光を放つウニの軍艦だった。
まるで夜の雨雲が晴れ、海の底から月明かりが差したかのような一貫。
「これはね、お店の〆の一貫。今日をゆっくり終わらせるための味だよ」
紗月はウニを見つめ、ふっと笑った。
「今日、ここに来てよかったです」
それは、重たい雨雲の隙間から差し込む光のような笑顔だった。

食事を終え、店を出る頃には雨は小降りになっていた。
紗月は傘を開きながら振り返り、大きく深呼吸した。
海斗は暖簾越しにその背中を見つめながら、静かに思った。

——寿司一貫で、人の人生の重さは変えられない。
だけど、一瞬だけでもその心に寄り添えるなら、それで十分だ。

翌朝、海斗はいつものように築地へ向かった。
海はまだ薄暗く、波はゆっくりとうねっていた。
潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、海斗は小さくつぶやく。
「さあ、今日も握るとするか。誰かの一日が、少しでも優しい味になりますように」

寿司屋「潮」の暖簾は、今日も静かに揺れている。