港町・鳴砂(なるさ)に、一風変わった料理人がいた。
名は 鯖江 蒼(さばえ あお)。
その名の通り、彼はサバをこよなく愛していた。
刺身、味噌煮、塩焼き、竜田揚げ、燻製、締めサバ、サバサンド……。
彼の頭の中は、四六時中サバ料理のことでいっぱいだった。
蒼には、ひとつの夢があった。
「サバ一本で勝負する、小さな専門店を作る」。
周りからはよく笑われた。
「サバだけなんて飽きられるぞ」「もっと豪華な魚を使えよ」。
それでも蒼は揺らがなかった。
サバの香りも、脂の甘さも、海をまっすぐ連想させるその味が、何より美しいと思っていたのだ。
ある年の春、蒼はついに念願の店を開く。
店の名は 『潮騒キッチン』。
カウンター八席だけの小さな店。
壁に飾られているのは、祖父が釣り上げたという巨大なサバの木彫り。
店に足を踏み入れた客は、そこに込められた蒼の情熱の一端を感じ取った。
開店初日、店は静かだった。
ちらりと覗きこむ人はいても、「サバ専門店」の暖簾を見ると、くるりと踵を返してしまう。
蒼は不安を抑えながら、仕込みを続けた。
ガス台にかけた味噌煮の鍋から、甘い香りが立ちのぼる。
その香りが、彼の背中を少しだけ支えた。
最初の客が来たのは、夕暮れの頃だった。
漁から戻ったばかりらしい年配の漁師が、暖簾を押しながら言った。
「やっとサバの店ができたか。待ってたぞ」
その一言で、蒼の胸に熱いものが込み上げた。
漁師は蒼が子どもの頃からよく知っている人物だった。
祖父と同じ船に乗っていたという。
「まずは塩焼きを。お前の腕、確かめさせてもらう」
蒼は頷き、丁寧に下処理したサバを網に載せた。
皮がぱちりとはじけ、脂がじゅわりと落ちる。
香ばしい匂いが店いっぱいに広がると、漁師の目が細められた。
「……うまい。あいつの孫だな。やっぱり筋がいい」
その夜、漁師は三品も追加した。
味噌煮、しめサバ、サバ茶漬け。
気がつけば、店の外に並ぶ人の姿があった。
香りに誘われたという人も、噂を聞いて来たという人もいた。
開店初日とは思えない賑わいだった。
次第に『潮騒キッチン』は、港町の小さな名物となった。
観光客は「サバのテーマパークみたいだ」と笑いながら写真を撮り、地元の人は「ここに来れば疲れが取れる」と言って常連になった。
蒼には、もうひとつ密かな夢があった。
「サバが苦手な人に、サバを好きになってほしい」。
ある日、その夢を象徴するような出来事があった。
小学生くらいの少女が、涙目で店に入ってきた。
母親に連れられてきたらしい。
「……サバ、嫌い。でも、お母さんにどうしてもって」
蒼はしゃがんで少女の目線に合わせ、にっこり笑った。
「じゃあ、いちばん食べやすいサバを作るよ。苦手でも大丈夫。サバはね、優しい魚なんだ」
彼が作ったのは、ふわふわのサバのほぐし身を使ったクリームコロッケ。
ひとくち食べた少女の目がまるくなった。
「……おいしい。これ、本当にサバ?」
「そうだよ。サバだって変身できるんだ」
少女は嬉しそうに皿を空にし、帰り際にそっと言った。
「サバ、好きになったかも」
その言葉は、蒼にとって最高の勲章だった。
夜の帳が落ちて、店の灯りが港を照らす頃、蒼は今日もサバを扱う。
包丁の音、香り、湯気――そのすべてが彼にとっては、海そのもの。
サバを愛する気持ちが、店を満たし、人を呼び寄せる。
いつか、サバの町として鳴砂が知られる日が来るかもしれない。
蒼はそう思いながら、小さく笑った。
その手には、今日もまた一本のサバ。

