夜の町は昼の顔をすっかり隠し、静けさに包まれていた。
商店街のシャッターの端には、まだ乾ききらない雨粒がきらきらと光っている。
そんななか、ひとりの青年がフードを深くかぶり、バックパックからスプレー缶を取り出した。
名前はレン。昼間は工場で働き、夜になると町に色をつける“無名のアーティスト”として活動している。
彼の作品はいつのまにか、町のあちこちに増えていた。
シャッター、地下道、古い倉庫の壁。
どれも派手すぎず、けれど目にした人の心をふっと軽くする色使いと曲線が特徴だった。
なぜ彼は描くのか。それは、昔この町に大好きなスプレーアートがあったからだ。
小学生のころ、通学路の途中にある古いガレージの壁に、鮮やかな鳥の絵が描かれていた。
羽を広げ、まるで空へ飛び立つ瞬間を切り取ったような絵。
その作者を誰も知らなかったが、レンは毎朝それを見るだけで元気が湧いた。
だが、中学に上がるころ、そのガレージが取り壊され、絵は消えてしまった。
町の再開発のためだった。
便利にはなったが、どこか同じような建物ばかりの町になった。
あの鮮やかな鳥のような、心が跳ね上がる色が消えてしまった。
――なら、自分が描けばいい。
そう思い立ったのが十六歳の夜。
それから数年、レンは独学でスプレーアートを学び、仕事が終わると缶を持って町に出るようになった。
今日描こうとしているのは、大きな「流れ星」。
商店街の角を曲がった先の、少し古いシャッターがキャンバスだ。
カチャン、と缶を振る音が夜に響く。
青、紫、白、金。
色が重なり、線が走る。
迷いのない動き。
それは、レンが一日でいちばん自由になれる時間だった。
しかし、ふいに背後から声がした。
「君だったのか。いつも描いているのは」
振り向くと、小柄な年配の女性が立っていた。
商店街の花屋の店主、ハナエさんだ。
レンは驚き、言い訳をしようと口を開いたが、その前に女性は微笑んだ。
「この町ね、昔もっと色があったのよ。誰が描いたかわからない絵がたくさんあってね。朝歩くたびに、ちょっと楽しくなったものよ。最近、またそれを感じられるようになったの。ありがとう」
レンは目を瞬いた。
叱られると思っていたのに。
「でも……迷惑になっていたら」
「迷惑なんてとんでもない。商店街のみんな、むしろ楽しみにしてるわよ。朝、どこに新しい絵ができたのか探すのが日課になってるくらい」
レンの胸が熱くなった。
自分の絵が、誰かの心を少し軽くしている。
幼いころ自分が感じたあの気持ちを、今度は自分が届けている。
「ねえ、レンくん」
「はい?」
「もしよかったら、正式にこの商店街の壁を描いてくれない? イベントで盛り上げたいのよ。堂々と、みんなの前で」
驚きと喜びがいっぺんに押し寄せた。
隠れて描くことが習慣になっていたが、こんな機会がくるとは思いもしなかった。
「やります。ぜひ」
レンは深く頭を下げた。
その夜の流れ星は、いつもより少し大きく、少し明るかった。
翌朝、それを見た人たちはみな足を止め、顔をほころばせた。
色を失ったと思っていた町に、再び光が戻りつつあった。
それは小さなスプレー缶から生まれた、ひとつの輝きだった。


