山あいに広がる小さな町・緑沢。
朝になると、谷を渡る風がぶどう畑をそっと揺らし、葉の間に隠れた実がきらきらと光る。
町の人々はその光を「緑の宝石」と呼んでいた。
――シャインマスカットだ。
この町で生まれ育った青年・悠人は、幼いころから祖父が作るぶどうが大好きだった。
特に、摘んだ瞬間にパチンとはじけるほど張りのあるシャインマスカットは、他の何よりも特別な味がした。
祖父はよく言っていた。
「いいぶどうは、手をかけた分だけ応えてくれる。けどな、急がせようとすると、すぐ拗ねちまうんだ」
子どもの頃には分からなかったその言葉の意味を、悠人は大人になって理解するようになった。
高校を卒業したあと、悠人は一度町を離れ、都会の食品会社で働いていた。
しかし、忙しさに追われる日々の中でふと気づいた。
――あの緑の丘が恋しい、と。
気持ちは日に日に強まり、ついには会社を辞め、祖父の畑を継ぐために帰郷した。
しかし、帰ってみると祖父の畑は荒れかけていた。
高齢の祖父ひとりでは、広い畑の世話は手に余っていたのだ。
「戻ってきてくれて助かったよ。でもな、ぶどう作りってのは簡単じゃない。覚悟はあるかい?」
祖父の問いに、悠人は迷わずうなずいた。
最初の一年目は毎日が失敗の連続だった。
水を与えすぎて根を弱らせたり、枝の剪定が甘くて房がうまく育たなかったり。
シャインマスカットは繊細で、少しの加減が実の甘さや張りに影響する。
悠人は悩み、焦り、時には泣きたいほど落ち込んだ。
それでも、祖父は口を挟まなかった。
代わりに、夜になると縁側でお茶を飲みながら静かに言った。
「うまくいかない時ほど、ぶどうはお前を見てる。お前が焦れば、ぶどうも焦る。お前が丁寧なら、ぶどうも丁寧に育つんだよ」
その言葉に励まされ、悠人は少しずつ作業の意味を理解し、ぶどうの声を聞くような気持ちで畑に向き合った。
そして三年目の夏。
朝露の残る畑で、悠人はとうとう見つけた。
光を吸い込んだように透き通った黄緑色の房。
指でそっと触れると、強く張りつめた皮が張り返してくる。
「できた……!」
胸の奥からじんわりと温かいものが広がり、悠人はその場にしゃがみ込んだ。
祖父もゆっくりと歩いてきて、その房を見て目を細めた。
「ようやく、うちの味に近づいたな」
それは、長い時間と手間と想いが詰まった、紛れもない努力の結晶だった。
その年、悠人のシャインマスカットは町の直売所で瞬く間に評判となり、売り切れが続くほどの人気を呼んだ。
買っていった人たちからは、「皮ごと食べられて甘い」「香りがすごい」と嬉しい声が届く。
悠人はそのたびに、畑で過ごした暑い夏の日々を思い出した。
秋の終わり、収穫を終えた畑を見渡すと、風に揺れる葉が静かにささやくようだった。
――来年もよろしくな、と。
祖父は縁側で湯飲みを手にしながら言った。
「味ってのはな、技術だけじゃなくて、人の想いも重なるんだ。悠人、お前のぶどうには、お前の気持ちがしっかり入ってるよ」
その言葉に、悠人は胸が熱くなった。
空は澄み渡り、夕日が丘を金色に染めていた。
緑沢の畑には、これからも新しい季節が巡り、シャインマスカットの実が光を帯びて育っていく。
悠人は静かに決意した。
――この「緑の宝石」を、もっと多くの人に届けたい。
そう思いながら、ゆるやかに色づく丘を見つめていた。


