静かな山あいの小さな町に、「ルミエール」という古い喫茶店があった。
木の梁がむき出しの店内には、どこか懐かしい甘い香りが漂い、冬になると毎晩のように淡い光がテーブルの上を揺らしていた。
その光の中心にあるのは、店の看板メニュー――チョコレートフォンデュだった。
店主の咲良は、三十代の女性で、いつも落ち着いた笑みを浮かべていた。
彼女がこの店を受け継いだのは五年前のこと。
祖母が営んでいた喫茶店を閉じようとしていると聞き、急いで駆けつけたのだった。
咲良にとって祖母の店は、小さな頃からの思い出そのものだった。
とくに、冬の夜に囲んだチョコレートフォンデュ。
祖母が大きな鍋でとろりとしたチョコレートを温め、それをテーブルのまん中に置くと、家族みんなが自然と集まった。
イチゴ、バナナ、マシュマロ、クッキー――どんな食材をつけても不思議なほど美味しくなるその甘さは、幼い咲良にとって魔法のようだった。
咲良は祖母の味を受け継ぐために、店を閉じる代わりに自分が継ぐことを申し出た。
祖母は驚いた顔をしながらも、うれしそうに「じゃあ、あのレシピを教えなきゃね」と笑ったのだった。
***
冬が近づくと、「ルミエール」にはいつもの常連客が戻ってくる。
その中に、最近よく来る大学生の青年・真司がいた。
彼は毎回コーヒーを一杯だけ頼み、ノートパソコンに向かって何かを書いている。
咲良は興味を持ったが、無理に聞き出すことはせず、そっと見守っていた。
ある雪の夜、店内にほとんど人がいなかった頃。
心なしか肩を落としている真司に、咲良は声をかけた。
「今日は、なんだかいつもより元気がないね。よかったら……チョコレートフォンデュ、どう?」
真司は驚いたように顔を上げ、「そんな、悪いですよ」と言いながらも、少しだけほっとしたような表情を浮かべた。
「いいの。今日は寒いしね。温かい甘さは、心に効くよ」
咲良が笑うと、真司はようやく軽くうなずいた。
鍋の底からふつふつと甘い香りが広がり、テーブルに小さな灯りが揺れた。
咲良が果物の皿を並べると、真司はふっと笑った。
「小さい頃、母とよくやりました。チョコフォンデュ。思い出してしまいました」
「そっか。思い出の味なんだね」
真司の表情は少し曇った。
「母は、去年亡くなって……。家にあるフォンデュセットも、そのままで」
咲良はしばらく言葉を探し、それから静かに言った。
「思い出が残ってるって、すてきなことだよ。甘いのも、ほろ苦いのも、全部。……ね」
真司はうつむきながらも、ほんの少しだけ笑った。
チョコレートに沈めたマシュマロを口に運び、彼の顔にやわらかい表情が戻る。
「……やっぱり、美味しいですね。温かい味がします」
咲良は、胸の奥がじんわりしてくるのを感じた。
「それならよかった。うちのチョコはね、祖母のレシピなの。あの人は“みんなが笑う味”って言ってた」
「確かに、笑えます」
真司はぽつりとつぶやき、パソコンの画面を閉じた。
***
それからというもの、真司はほどなくして喫茶店で執筆することが減り、代わりに咲良の手伝いを申し出るようになった。「気分転換に」と言いながら、彼は厨房で野菜を切ったり、皿を並べたりするのを楽しんでいた。
ある日、閉店後に咲良が声をかけた。
「ねえ真司、書いていたのって……小説だったの?」
真司は少し照れたように笑った。
「はい。うまく書けなくて悩んでたんです。でも、ここに来るようになって、少しずつ書けるようになりました」
「そうだったんだ。どんな話?」
「……冬の夜に、甘い灯りが人をつなぐ話です」
そう言って、真司は咲良の方をそっと見た。
咲良は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「それ、きっと素敵な物語だと思うよ」
真司は微笑み、そして言った。
「完成したら、店で読んでくれますか?」
「もちろん」
その夜、店に残ったチョコレートの甘い香りは、いつもよりほんの少し温かく漂っていた。
チョコレートフォンデュの灯りは、人の気持ちをほんの少しだけ近づける。
咲良は、その魔法を祖母から受け継いだことを、心から誇りに思った。


