一椀の記憶

食べ物

春の風が町をやわらかく撫でる朝、料理人の志帆は店の仕込みを始めていた。
彼女が営む小さな和食店「しずく」は、決して華美な店ではない。
しかし、常連たちが口を揃えて言う名物があった。
それは、出汁の香りがふわりと立ちのぼる、ただ一椀のお吸い物だった。

志帆がお吸い物にこだわる理由は、八年前に亡くなった母にあった。
母は優しい人で、忙しい中でも朝に必ずお吸い物を作ってくれた。
昆布と鰹節の香りが台所に漂う時間は、志帆にとって一日の始まりの合図であり、家族の温かさを感じる瞬間でもあった。

ある日、志帆がまだ修行中の頃、母が病に倒れた。
看病の合間に作ったお吸い物を母の口元に運ぶと、母は弱々しく微笑み、「志帆の出汁は、心があるね」と言った。
それが、母が残した最後の言葉だった。

その言葉が、志帆の支えとなった。
どれほど時が過ぎても、彼女は毎朝、鍋に向かい、澄んだ出汁を取ることを欠かさなかった。
まるで、母との会話を続けているように。

そんなある日、「しずく」に一人の青年が訪れた。
細身で、どこか疲れた表情をしている。
昼時を少し過ぎた頃だった。

「おすすめは何ですか?」

青年の問いに、志帆は迷わず答えた。

「うちのお吸い物を、ぜひ」

青年は頷き、静かに席に着いた。
やがて盆に乗せられた一椀が運ばれる。
薄い塩味。透き通った出汁。
浮かべたのは季節の若芽と小さな麩。
青年はゆっくりと口をつけ、目を閉じた。

そして、ぽつりと涙を落とした。

驚いた志帆が声をかけると、青年は恥ずかしそうに笑った。

「母の味に、そっくりで……。僕の母も、よくお吸い物を作ってくれたんです。小さい時、風邪をひいたときなんか特に」

志帆の胸に、静かな波が広がった。

「お母様、料理が上手だったんですね」

「ええ。でも、数年前に亡くなって……。料理学校に行きたいって言ったときも、喜んでくれました。でも僕、うまくいかなくて。学校も辞めてしまって……今日は、昔を思い出したくて、和食屋を探してたんです」

沈んだ声に、志帆は自分の姿を重ねた。
失った人への想い、自信をなくす気持ち。
どれも痛いほど分かる。

「よかったら、また食べに来てください。お吸い物は、いつでもあなたを迎えますから」

青年は少し驚き、そしてそっと笑った。

それから彼は、週に一度店に通うようになった。
最初は食べに来るだけだったが、ある日、勇気を振り絞るように尋ねてきた。

「……志帆さん。もしよければ、僕に出汁の取り方を教えてもらえませんか?」

志帆は静かに頷いた。

鍋に昆布を入れ、水の温度がじんわりと上がるにつれ、部屋にはかすかな海の香りが広がる。
火を止め、鰹節をぱらりと落とす。
青年は真剣な眼差しで見つめていた。

「焦らず、急がず。ただ素材に向き合うんです」

「……母さんも、同じこと言ってました」

湯気の向こうで、青年の目が少し赤くなっている。
それは悲しみというより、前へ進もうとする強い光だった。

季節が巡り、青年はついに自分の店を持つと言った。
小さな店だが、夢が詰まった場所。
開店の日、志帆は祝いの花束を手に訪れた。

青年は照れくさそうに笑いながら、一椀のお吸い物を差し出した。

「志帆さん。あの時のお吸い物が、僕を救ってくれました。今度は、僕が誰かを救える料理を作りたいんです」

湯気の向こうで、志帆は母の言葉を思い出す。

「心のある出汁——そんな料理を作りたい」

青年の椀からは、まっすぐでやさしい香りが立ちのぼっていた。

志帆は静かに味わい、目を閉じた。

「……立派になりましたね」

その一言に、青年の目が潤んだ。

お吸い物の湯気は、過去と未来、失ったものと新しい希望をそっとつなぎ合わせる。
その日、「しずく」の帰り道、志帆の胸には春風のような温かな想いが広がっていた。