白星に触れず──エーデルワイスの願い

面白い

アルプスの山々に抱かれた小さな村・ブランネには、毎年夏になると観光客が訪れた。
けれど村の人々が本当に大切にしているのは、華やかな季節でも賑やかな市場でもなく、雪解けの岩場にひっそりと咲く白い花——エーデルワイスだった。

村の若者レオンは、その花に特別な思いを抱いていた。
幼いころ、山で迷った彼を見つけてくれたのは、花を採りに来ていた祖父だった。
険しい岩場の奥で祖父が手にしていたのが、星のように輝く一輪のエーデルワイス。
その白さと強さは、レオンにとって“守りの象徴”のように思えた。

しかし祖父は数年前に亡くなり、レオンは寂しさと向き合う日々を送っていた。
村では毎年、山の女神に感謝を捧げる「白星祭」が開かれる。
エーデルワイスを一輪だけ山からいただき、祈りを捧げる儀式だ。
今年、その花を採りに行く役目がレオンに回ってきた。

けれど、エーデルワイスが咲く場所は危険な断崖だ。
無理をして命を落とした人もいる。
レオンは覚悟を問われていた。

ある朝、まだ薄暗い空の下、レオンは祖父の古い登山杖を手に山へ向かった。
冷たい風の中にかすかな草の匂いが混じり、彼の胸は緊張と期待で満たされる。
祖父と歩いた山道は、今では少し荒れていたが、足元の小石が転がる音すら懐かしく感じられた。

やがて断崖の手前に着くと、彼は深呼吸をした。
祖父に教えられた足運びを思い出しながら慎重に岩場を進む。
日が昇り始め、風に触れた岩肌が淡く光り始めたとき——視界の先に、一輪の白い花が揺れているのが見えた。

その花は、まるで祖父の笑顔のように穏やかで、凛としていた。
レオンはそっと膝をつき、花に手を伸ばしかけて止める。
祖父の言葉が脳裏によみがえった。

「エーデルワイスはな、勇気の証であると同時に、そっと見守る心の象徴なんだ。無理をして摘むより、心で受け取ることもある」

レオンは息を呑んだ。
祭りのために花を持ち帰るのが役目だ。
しかし目の前にあるのはたった一輪。
ここで摘んでしまえば、来年の花は減ってしまうかもしれない。

彼はしばらく風の音に耳を澄ませた。
山の静けさの中で、祖父が背中を押してくれるような気がした。

レオンは小さな布袋から木彫りの星を取り出した。
祖父が彫ってくれた“安全のお守り”だ。
それを花の根元の近くにそっと置くと、低くつぶやいた。

「今年の祈りは、この花に託します」

その瞬間、山の風がふっと強く吹き抜け、エーデルワイスの白い花びらが陽の光を受けて輝いた。
レオンは胸の奥が温かく満ち、ふしぎと祖父がそばにいるように感じた。

祭りの日、レオンは村人たちの前に立ち、正直に話した。
「花は摘まずに置いてきました。でも、祈りは山に届いているはずです」と。

一瞬、広場は静まり返った。
しかし年長者の一人がゆっくりとうなずき、「それもまた、山への敬意だ」と言った。
次々に賛同の声が上がり、人々はレオンの選択を受け入れた。

その夜の白星祭は、いつもより穏やかで、星の光がひときわ澄んで見えた。
レオンは祭りの灯りを眺めながら、これからは祖父のように山を守る人になりたいと願った。

翌年、レオンは再び山へ向かった。
かつての場所には——去年よりもひとまわり大きな株のエーデルワイスが三輪、並んで咲いていた。
風に揺れるその姿は、まるで祖父と山からの贈りもののようだった。

レオンはそっとほほえみ、空に向かって「ありがとう」とつぶやいた。