灯りを運ぶ屋形船

面白い

東京湾に浮かぶ屋形船「みづき」は、古びた木の香りと、どこか懐かしい提灯の明かりに包まれていた。
船主の川島遼太郎は、祖父の代から続く屋形船を三代目として継ぎ、今日も夕暮れの出航準備に追われていた。

遼太郎が船を継いだのは五年前。
サラリーマンとして忙しく働いていた彼は、祖父が亡くなったという知らせを受けて実家へ戻った。
そのとき初めて、古い船の中に残された祖父の手帳を見つけた。
「船は人を幸せに運ぶ器であれ」。
その言葉が胸に残り、彼は思い切って会社を辞め、屋形船の世界に飛び込んだのだった。

しかし現実は甘くない。
観光客の減少、燃料費の高騰、船の老朽化。
乗客の笑顔を守るために、遼太郎は毎日のように修理や改良を重ね、なんとか営業を続けてきた。

この日の予約は二組だけ。
ひとつは、金婚式を迎える老夫婦。
もうひとつは、就職活動中の学生の小さな慰労会。
どちらも遼太郎にとって、特別な思い入れのある客だった。

日が沈み、オレンジ色の空が水面に映るころ、船は静かに動き始めた。
料理長の藤原が作る天ぷらの香ばしい匂いが船内に広がり、遼太郎は舵を握りながら、乗客の笑い声を背に受けた。

やがて、金婚式の老夫婦がそっと甲板に出てきた。
夫の武さんは、遼太郎の祖父・正吉と若いころ同じ造船所に勤めていたという。

「正吉は、いい船をつくる男だったよ」と武さんは言った。
「この船、まだ彼の面影が残ってる。大切にしてくれてありがとうな」

遼太郎は驚き、そして胸が熱くなった。
祖父の知らなかった一面に触れた気がした。

一方、学生たちのテーブルでは、緊張ぎみだったはずの彼らが談笑し、夢を語り合っていた。
藤原が揚げたての穴子天を運ぶと、その香りにみんなの顔がほころんだ。

「こんな景色、学生のうちに見られるなんて思わなかった」と一人がつぶやくと、ほかのメンバーも頷いた。

船はレインボーブリッジの下へと差し掛かり、夜景が一気に輝きを増した。
その瞬間、船内に小さな拍手が起こる。
誰に頼まれたわけでもない、ただその景色が心を動かしたのだ。

遼太郎はふと思った。
「船は人を幸せに運ぶ器であれ」。
祖父の言葉は、たしかにこの船の中で生き続けている。
老夫婦の思い出も、学生たちの未来への希望も、この小さな屋形船がそっと包み込んでいる。

航路の折り返し地点に差し掛かったとき、武さんの妻・恵子さんが遼太郎に声をかけた。

「あなたのおじいさん、よく言ってたのよ。屋形船はね、人の人生を照らす灯りになれるんだって」

遼太郎は微笑み、静かに頷いた。
「僕もそう思います。だから、これからも少しずつでもこの船を良くしていきたいんです」

老夫婦は満足そうに空を眺めた。
夜風が心地よく吹きぬけ、東京の灯りが川面に揺れた。

帰港する頃には、船内は温かな余韻に包まれていた。
学生たちはそれぞれ未来への一歩を踏みしめるように肩を叩き合い、老夫婦は手をつなぎながらゆっくりと下船していった。

その背中を見送りながら、遼太郎はそっと舵に手を置いた。
この船で運べるものは、料理だけではない。
笑顔、思い出、そして未来。
屋形船「みづき」は今日も静かに波間で揺れ、人々の人生を照らし続ける灯りとなる。