潮香(しおか)のラーメン物語

食べ物

海辺の町・波間町(なみまち)には、漁港の匂いと潮風が混じり合う穏やかな朝が訪れる。
その港のすぐそばに、小さな木造の建物がひっそりと建っていた。
看板には筆文字で「潮香(しおか)」とある。
エビの出汁で勝負する、ラーメン屋だ。

店主の月島涼(つきしま りょう)がこの店を始めたのは、一匹のエビとの出会いがきっかけだった。

——数年前。涼は料理人として東京の名店で修業を積んでいた。
しかし、激しい競争の中で自分の料理の意味を見失いかけていた。
そんな時、久しぶりに帰省した波間町で、父が連れて行ってくれた市場でのことだ。

「これは今日一番のクルマエビだぞ。味見してみるか?」

港の古参漁師・西谷が差し出した生きのいいエビを、涼はほんの少し炙って口に運んだ。
すると、ただ甘いだけではなく、海辺の朝そのものを閉じ込めたような清らかな香りが口いっぱいに広がった。

その瞬間、胸の奥がざわめいた。

——この香りを、もっと多くの人に届けたい。

その夜、涼は家の台所にこもり、子どもの頃から使い慣れた小鍋でエビの殻を炒めてみた。
香ばしい香りが家中に満ち、母が「懐かしい匂いね」と微笑んだ。
炒めた殻に水を注ぎ、弱火でことこと煮込むと、黄金色のエキスがゆっくりと広がっていく。

ひと口すすると、思わず息をのんだ。

——東京で追い続けた “技術” では追いつけない、ふるさとの味だ。

この瞬間、涼は決めたのだった。
エビの出汁で、ラーメンを作ろう。
そして、この町で店を開こう。

 

店の準備は決して簡単ではなかった。
ラーメン屋の経験はゼロに近い。麺との相性、タレとのバランス、スープの濃度。
何度作っても「もう少し」に思えた。
エビの香りが強すぎるとくどく、弱すぎると物足りない。
毎日、港でエビを買い、殻をひたすら炒め続けた。

ある晩、ついに理想の一杯が生まれた。
あの黄金色のスープに、細めの縮れ麺がほどよく絡み、エビの旨味を支えるようにほんの少し白醤油が香る。
仕上げに炙ったエビ油を一滴垂らすと、立ち上る湯気が海風のように軽やかだった。

涼は思わず涙がこぼれた。

——これなら、胸を張って出せる。

 

そして迎えた開店の日。
朝早くから、漁師たちが面白がって店の前に集まっていた。

「月島の息子がラーメン屋だってよ」
「エビで出汁?そんなもんで麺が合うのか?」

半ば冷やかし混じりの声。
しかし、最初の客が一口すすった瞬間、店の空気は一変した。

「……うまい。海そのものの味がする。」

次の客も、次の客も、同じように驚いた顔で食べ進めた。
漁師たちが「こんなの初めてだぞ」と笑い、港に噂が広まるのはあっという間だった。

 

開店から一年が過ぎた頃、東京から訪れた食の雑誌が涼の店を大きく取り上げた。
翌日から行列ができる日も多くなったが、涼は浮かれることなく、毎朝のように港へ向かい、エビを見て確かめる。

「今日の潮はどうですか?」
「この大きさなら殻の旨味が強いぞ」

漁師たちとの会話は、店にとって欠かせない “仕込み” だった。

 

ある夕暮れ、店内にひとりの老婦人が入ってきた。
亡き母の友人だった。

「涼くん、このスープを飲むとね……あの頃、海辺で遊んだ日のことを思い出すの」

そう言って、老婦人はゆっくりと目を閉じた。

涼は静かに頭を下げた。
自分の作るラーメンが、人の記憶を呼び起こす。
その事実が何よりの励みだった。

 

夜の帳(とばり)が降りる頃、涼は店の暖簾をそっと下ろす。
潮の匂いを含む風が店先を通り抜けていく。

——この町のエビがある限り、俺はこの味を作り続ける。

そう誓う涼の背中は、海のように静かで温かかった。