山の斜面が、燃えるような赤と黄金に染まる季節になると、遥はそわそわし始める。
街路樹が色づき始める頃には、すでにリュックの中身を整え、次の週末の天気予報を毎日確認するのが恒例だった。
彼女にとって紅葉狩りは、ただの季節行事ではない。
胸の奥の深いところを、やさしく温めてくれる特別な時間だった。
きっかけは祖父だった。
幼い頃、まだ紅葉という言葉も知らなかったころ、祖父に手を引かれて訪れた山寺の参道。
小さな階段を一段ずつ上るたび、落ち葉がふわりと舞い、頭の上から光がこぼれてきた。
初めて見た赤い世界は、絵本の中に迷い込んだように鮮烈で、そのとき祖父が言ったひと言が、いまも遥の心に残っていた。
「綺麗なものは、ひとつとして同じ形に戻らん。だからこそ見逃しちゃいかんぞ」
その言葉が、遥にとって紅葉の色を追いかける意味になった。
今年の秋、遥は久しぶりに祖父がよく連れて行ってくれた山へ向かうことにした。
仕事が忙しく、何年も足を運べずにいた場所だ。
電車を乗り継ぎ、ローカル線でゆっくり山間へ向かう時間は、心のざわつきを静かにしてくれる。
窓の外に広がる景色は、赤や橙のグラデーションを描き、まるで昔の記憶が外側からそっと包み込んでくるかのようだった。
駅に着くと、冷たい風が頬を撫でた。
かつて祖父と歩いた参道は、思っていたより急で、階段の数も多い。
幼い頃はあんなに軽い足取りで走り回っていたのに、今では息が少し上がる。
けれど、木々の隙間から差す光は変わらなかった。
まるで祖父の温かい手のようだった。
途中、小さな茶屋が見えた。
祖父とよく寄った店だ。
暖簾が揺れ、中には変わらず炉が焚かれていた。
店主の老夫婦は、遥の顔を見るなり柔らかく目を細める。
「まあ、もしかして遥ちゃんかい?」
「覚えていてくれたんですか?」
「そりゃあ覚えてるとも。おじいさんと毎年来てくれてたじゃないか」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
祖父が亡くなってからこの場所に来られなかった理由が、ようやく言葉になった気がした。
「今年はね、久しぶりに来たくなったんです」
「いい時に来たよ。今日が一番の見頃だ」
茶屋を出て、再び山道を歩く。
やがて視界が開け、山の頂へと辿り着いた瞬間、遥の呼吸は止まった。
山一面が燃えるような色彩に染まり、風に揺れる葉の音がさざ波のように響く。
夕陽が差し込み、赤はさらに深く、橙はさらに眩しく輝いた。
遥はゆっくりとベンチに腰を下ろし、祖父と過ごした日々を思い出す。
毎年、同じ場所に来ても、同じ色の紅葉がなかったこと。
祖父がいつもその違いを見つけては嬉しそうに笑っていたこと。
あの笑顔に、どれだけ救われていたのだろう。
「おじいちゃん、今年の紅葉もすごく綺麗だよ」
小さくつぶやくと、風が優しく頬を撫でた。
まるで返事をしてくれているようだった。
陽が沈み始めると、山の色はゆっくりと薄闇の中に溶け込んでいった。
けれど、その移ろいゆく時間こそが、遥にとっての紅葉狩りの醍醐味だった。
永遠ではないからこそ、いま目に映る光景がより愛おしい。
祖父の言葉が、胸の奥で静かに響く。
「同じ形には戻らんからこそ、見逃しちゃいかん」
帰り道、遥の足取りは軽かった。
来年も、再来年も、その先の未来も、紅葉の色を見に行こう。
祖父と一緒に見た景色を、これからも心の中に鮮やかに描き続けよう。
秋風が吹くたびに、遥の心はそっと紅く染まるのだった。


