秋のはじまりを知らせる風が、丘の上のコスモス畑をそっと揺らしていた。
淡い桃色、白、そして夕陽のような濃い赤——無数の花が風にさざめき、まるで世界が柔らかな絵筆で塗り重ねられたようだった。
七海は、その畑をひとりで歩いていた。
ここは、小さい頃、祖母に連れて来てもらった思い出の場所だ。
背丈ほどもある花の迷路に紛れ込んでは、祖母と笑い合ったその日の匂いが、今も風に混ざっている気がする。
今日は久しぶりに帰省し、祖母の家を片付けるために町へ戻ってきた。
祖母は去年の冬に静かに旅立ち、住んでいた家は空き家のままだった。
荷物整理に追われた一日の終わり、七海は無意識に足をこの丘へ向けていた。
畑の中央に立つと、花々が一斉に揺れて彼女を迎えるようだった。
その様子に胸が熱くなり、七海は小さく息を吸った。
そのとき、ふと視界の中で動く影があった。
花のあいだをひょこひょこと縫うように進む小さな子どもだ。
白い帽子をかぶった男の子で、どうやら迷っているようだった。
「大丈夫?」と声をかけると、男の子は驚いたように振り返った。
「お母さんとはぐれちゃったの」
七海は膝を折って男の子の目線に合わせた。
「名前は?」
「りく」
「そっか。じゃあ、りくくん、一緒にお母さんを探そうか」
りくは少し安心したように頷いた。
七海は彼の手を握り、コスモスの通り道をゆっくり進んだ。
茎が揺れ、花びらがふわりと肩に落ちてくる。
「ここ、きれいだね」とりくが呟く。
「うん。私も小さい頃、よく来てたんだよ」
「だれと?」
「おばあちゃんと」
りくは優しい目で七海を見上げる。
「じゃあ、七海のおばあちゃんも、ここ好きだったんだね」
「……そうだね。きっと今日みたいな日が好きだったと思う」
そう答えた瞬間、胸の奥に何かがあふれ、七海は一度だけ目を閉じた。
風が吹き、花の匂いが優しく包む。
やがて、丘のふもとに近づくと、心配そうに辺りを見回す女性が見えた。
りくの母親だった。
「りく!」と母親は駆け寄り、息子をぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうございます。本当に……」
「いえ、たまたま見かけただけで」と七海は微笑んだ。
親子が手をつないで帰っていくのを見届けたあと、七海はもう一度、畑のほうへ視線を戻した。
すると、風に揺れる花々の向こう側に、祖母の姿が立っているような気がした。
薄桃色の着物をまとい、あの日と同じやさしい笑顔で。
七海はそっとつぶやいた。
「おばあちゃん、私、ちゃんと前に進むよ」
風が答えるように吹き抜け、コスモスたちがぱっと揺れた。
夕陽が丘を染め、花びらが光を透かしてきらめく。
七海は深く息を吸い込み、両腕を広げるように胸を張って歩き出した。
帰り道、ふと振り返ると、畑は一面、柔らかな色の波となって揺れていた。
まるで「またおいで」と手を振っているようだった。
七海は微笑み、心のなかでそっと答えた。
「うん。また来るね」
コスモス畑の風は、どこまでも優しく頬を撫でていた。

