味をつなぐ店

食べ物

名古屋駅から少し離れた裏通りに、小さな定食屋「かつのや」がある。
木製の引き戸は年季が入り、昼時にはサラリーマンと学生でぎゅうぎゅうになるほど人気だ。
看板料理は、もちろん味噌カツ。
甘く、少しほろ苦い香りの味噌だれが、店の前を通るたびにふわりと鼻をくすぐる。

店主の真治は、無口でぶっきらぼうだが腕は確かだった。
若いころは東京の有名店で修行したが、父が倒れたことで故郷の名古屋へ戻り、家業の店を継いだ。
父が元気だったころからの味噌だれの味は変えず、しかし揚げ方や肉の選び方には自分の工夫を加えてきた。

その真治には、ひとり娘の佳乃がいた。
中学二年生で、店の手伝いをするのが好きな明るい少女だ。
特に、味噌だれの香りが立ち上る鍋をかき混ぜる時間が好きだった。

「お父さん、この味、ほんと落ち着くよね」

夕方、仕込みの時間。佳乃がそう言うと、真治は照れたように咳払いをした。

「お客さんが落ち着く味であればそれでいいさ」

そんな親子の日常が続いていたが、ある日、店にひとりの老人が現れた。
細身で背が高く、コートの襟を立てている。
どこか記憶の底を探るような目をしてカウンターに座ると、静かに注文した。

「味噌カツ定食をひとつ。濃いめで頼むよ」

真治は軽くうなずき、調理に取りかかった。
厚みのあるロース肉に衣をつけ、油へと沈める。
「ジュワッ」と音が響き、周囲の客の視線が油鍋に集まる。
黄金色に揚がったところで切り分け、丼によそったキャベツの上にのせる。
そして、店の命ともいえる味噌だれをとろりとかけた。

老人はそれを一口、ゆっくり噛みしめた。

「……変わらんな」

小さくつぶやいた言葉に、真治は動きを止めた。

「え? もしかして……」

老人は顔を上げ、微笑んだ。

「久しぶりだな、真治。お前の父さんにはずいぶん世話になったもんだ」

父が若い頃、店を始めたばかりで苦労していた時代。
店に足繁く通い、料理の感想を率直に言ってくれた常連がいたと、父から聞いたことがある。
それが、この老人・田島だった。

「父さんの味、ちゃんと残してるんだな」

老人の言葉に胸が熱くなる。
父は亡くなる直前まで、味噌だれの味だけは絶対に変えるなと言っていた。
それが店の心であり、客との絆であるから、と。

「……ありがとうございます」

そう答える真治の横で、佳乃も老人をじっと見ていた。

「おじいさん、この味知ってるの?」

「もちろん。君のおじいさんの味だ」

味噌だれの香りに包まれながら、三人はしばらく昔話に花を咲かせた。

しかし、その夜。
店を閉めた後、佳乃がぽつりとつぶやいた。

「ねえ、お父さん。いつか、私も新しい味噌だれを作ってみたい」

その言葉に、真治はドキリとする。
伝統を守りたい気持ちと、娘の挑戦を応援したい気持ちが胸の中でせめぎ合った。

「……父さんの味は守る。でも新しい味を作っちゃいけないって決まりはないよね」

佳乃はそう続けた。

真治はしばらく黙った後、ゆっくりと笑った。

「そうだな。やってみるか。父さんも、お前が挑戦するなら喜ぶと思う」

翌週から、二人は閉店後に試作を始めた。
赤味噌に黒糖を足したり、少し酸味を加えたり。
何十回も失敗し、焦がした鍋を何度も洗った。

そしてある晩、佳乃が作った味噌だれを味見した真治は、思わず箸を止めた。

「……うまい。優しいけど芯がある。お前らしい味だ」

佳乃の目が大きく開き、頬が赤く染まる。

「ほんとに!?」

その新しい味噌だれは、平日の夜限定で出すことにした。
メニュー名は佳乃が考えた。

「未来味噌カツ」

初めこそ誰も気づかなかったが、ある常連がひと口食べて目を丸くした。

「なんだこれ……新しいのに、どこか懐かしい味だな」

口コミで広まり、やがて二つの味噌カツを求めて店はさらに賑わうようになった。

カウンターには、父の代から愛される味と、次の時代を作る味が並んでいる。

真治はふと思う。

――味ってのは、繋がっていくものなんだな。

娘が味噌だれをかき混ぜる姿を見ながら、真治は目を細めた。

厨房から広がる味噌の香りは、これからもずっと店と人を結び続けるだろう。