冬の風が町を吹き抜け、夕暮れの光が赤く台所を染めていた。
七海は、祖母の家の勝手口に置かれた買い物袋をそっと覗いた。
中には、れんこん、ごぼう、にんじん、鶏肉、干し椎茸……いかにも「筑前煮」らしい具材が整然と詰まっている。
「今日は、これを一緒に作ろうね」
祖母はそう言って、七海に柔らかく微笑んだ。
七海がここへ来るのは久しぶりだった。
仕事に追われ、なかなか時間をつくれず、祖母の家へ足を向ける余裕もなかった。
それでも、祖母が最近少し疲れて見えると母から聞き、気が気でなくなって、ようやく今日の訪問を決めたのだ。
鍋に油が落とされ、じゅうっと音を立てて温まっていく。
七海は、切った野菜を祖母の言う順番にそっと入れていった。
れんこんの白、にんじんの橙、ごぼうの渋い色合い、椎茸の黒。
どれも形や色が違っていて、鍋の中で賑やかに踊り始める。
「筑前煮はね、具材の個性をそのまま活かす料理なんよ。ほら、なんでも一緒くたにせんで、それぞれの良さを引き出すように煮ると、美味しく仕上がるんよ」
祖母はいつもの調子で語りながら、手際よく調味料を準備している。
七海はその言葉を聞き流すようで聞いていたが、ふと胸がちくりとした。
それは祖母が昔からよく言う言葉だった。
「七海は七海のままで、ええんよ」
そう言い続けてくれたのも、この祖母だった。
七海は仕事でミスを連発した時期があり、職場で自信を失いかけていた。
その頃、祖母の声が何度も脳裏によみがえっていた。
鍋から甘辛い匂いが立ちのぼり、台所に冬の匂いが広がった。
七海は思わず深く息を吸う。
小さい頃、祖母が作ってくれた筑前煮の香りだ。
冬休み、こたつで漫画を読みながら、台所からこの匂いがしてくると、とにかく胸が弾んだ。
「おばあちゃん、これ、まだ覚えとるよ。私がにんじんだけ先につまみ食いしたら、すぐバレたよね」
「ああ、あれは七海の癖やったけんね。にんじんの角が一個だけ減っとったんよ。わかるに決まっとるやろ」
二人は目を合わせて笑った。
鍋の中では具材がふっくらと色づき始め、照りが出てきた。
茹でた絹さやを最後に散らすと、鍋全体が鮮やかに締まる。
ふいに祖母が火を止め、七海の顔を覗き込んだ。
「七海、最近いろいろ大変なんやろう?」
七海の心臓が一瞬止まったように感じた。
何も言っていないのに、どうしてわかるのだろう。
「……うん。でも、どうしたらいいか正直わからん。自信がなくなるんよ」
祖母は静かに頷き、七海の手を取った。
「具材もね、火にかけられたばっかりの時は固くて、味も染みとらん。でも、時間をかけてゆっくり煮ていけば、ちゃんと美味しゅうなるとよ。焦らんでいい。七海も、いまはまだ煮込みの途中なんよ」
その言葉は、温かくて、涙腺にじわりと染み込んだ。
祖母と七海は食卓に鍋を運んだ。
湯気がふわりと立ちのぼり、冬の冷えた部屋を優しく満たした。
箸でれんこんを割ると、しっとりと味が染みている。
七海はひと口食べ、思わず目を細めた。
「やっぱり、おばあちゃんの筑前煮が一番好き」
「七海がそう言ってくれるなら、ばあちゃんはまだまだ元気でおらんとね」
二人の笑い声がこたつの赤い光に吸い込まれていく。
その夜、七海は帰り支度をしながら、祖母の言葉を何度も思い返していた。
焦らなくていい。煮込みの途中でいい。
そう思えた瞬間、胸の奥の固まっていたものがふっとほどけた気がした。
七海が玄関の扉を開けると、外の空気は凛として冷たかった。
だが、心には温かい湯気がまだ残っていた。
バッグには、祖母が持たせてくれたタッパーの筑前煮。
明日、また頑張れそうだ。
七海は小さく息を吐き、冬の夜道を歩き出した。


