心を運ぶエビフライ

食べ物

商店街の一角に、昔ながらの定食屋「こはる亭」があった。
暖簾をくぐると、ふわりと漂う油の香り。
そこで働く青年・春斗は、祖母から店を受け継いで以来、毎日ひとつのメニューを心を込めて揚げていた――エビフライだ。

こはる亭のエビフライは特別だった。
驚くほどまっすぐで、噛めばサクッと音がして、噛むほどに甘みが広がる。
春斗が祖母から教わった唯一の「門外不出の味」。
けれど春斗には、ひとつだけ気がかりがあった。
どれほど美味しいと言われても、自分の味が本当に“誰かを幸せにしている”のかわからないのだ。

ある日、店にひとりの少女が訪れた。
ランドセルを背負ったままの小学五年生くらいの子で、戸口で少し立ち止まりながらも、意を決したように入ってきた。

「エビフライ定食、ください」

声は小さいが、まっすぐだった。
春斗は頷き、丁寧に衣をつけ、油へそっと落とす。
ジュワッという音が店内に広がる。
揚がったエビフライは金色に輝き、湯気を立てて皿の中央に鎮座した。
少女は目を輝かせ、そのひと口目をそっとかじった。

――その瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。

驚いた春斗が声をかけようとしたが、少女は慌てて袖で涙を拭った。

「ごめんなさい、美味しくなかったとかじゃなくて……。お母さんの味に似てて……」

聞けば、少女の母親は数年前に亡くなったという。
忙しい仕事の合間でも、誕生日だけは必ずエビフライを揚げてくれた。
それが二人の小さな約束であり、いちばんの思い出だった。

「もう二度と食べられないと思ってたのに……こんな味、覚えてるはずないのに……」

少女の言葉は震えていた。
春斗の胸に、じん、と熱が広がった。
祖母がいつも言っていた言葉を、ふと思い出す。

――料理はね、人の心を運ぶのよ。

その日から、少女は定期的に店へ来るようになった。
学校で嫌なことがあった日も、運動会で頑張った日も、決まってエビフライを注文する。
春斗は彼女が来るたび、祖母に習った通り、一本一本のエビに「まっすぐ、美味しくなれよ」と心の中で声をかけながら揚げた。

そしていつしか、春斗自身も気づいていった。
自分のエビフライが、少女の心の支えになっていることを。
料理は誰かを幸せにし、誰かを救うことさえあるのだということを。

ある冬の夕方、少女は店を出る前にくるりと振り返った。

「ねえ、お兄さん。私ね、大きくなったら料理人になりたい。お母さんみたいに、誰かを幸せにできるエビフライを揚げたいの」

春斗は静かに笑った。
少女の夢が、かつて祖母から受け取った想いへと重なる気がした。

「きっとなれるよ。君なら、きっと美味しいエビフライを揚げられる」

湯気の向こうに広がる小さな笑顔。
それは、春斗がこの店を続けてきて初めて見た“確かな答え”だった。

その日、春斗は一本のエビフライをいつもより慎重に揚げた。
黄金色に染まったその姿は、まるで誰かの未来を照らす灯りのようだった。

こはる亭のエビフライは今日も香ばしい音を立てながら、誰かの心へ届けられる。
揚げるたびに、春斗は思う。

――この味が、また誰かの願いに寄り添えますように。