海へ帰る日

食べ物

志摩半島の沖合。
夕日に照らされ、海面は金色に揺れていた。
海の底では、タカアシガニの“タケル”がゆっくりと長い脚を動かしていた。
十本の脚を伸ばすたび、砂がふわりと舞い、静かな海の中に模様を描く。
タケルは自分より小さな魚たちが近くを泳ぎ抜けるのを見送りながら、胸の奥に密かな願いを抱いていた。

――一度でいい、人間というものを見てみたい。

タケルは生まれてから何十年も海底で暮らしてきた。
仲間たちは「海面の上は危険だ」「人間は怖いぞ」と口をそろえて言ったが、それでもタケルの好奇心は消えなかった。
遠くから聞こえる船のエンジン音、時折ゆらゆらと差し込む影。
海の上にどんな世界があるのか知りたくてたまらなかった。

ある満月の夜、タケルは決意した。
海底の谷から浮上し、ゆっくりと上へ向かって歩き出したのだ。
長い脚を使い、慎重に、しかし確かな足取りで海面へと向かう。
仲間たちの驚いた声が後ろから聞こえたが、タケルは振り返らなかった。

やがて、水面近くまで来たときだった。
ぽちゃん、と小さな音が聞こえた。
見上げると、光の帯をまとった細い糸が海中に伸びてきていた。
その先には、赤い浮き。
どうやら漁師の仕掛けた網らしい。
タケルはそれを眺めながら、不思議な胸騒ぎを覚えた。

――これは、人間の手がつくったものだ。

恐ろしいというよりも、その未知の存在に胸が高鳴った。
だが、タケルが近づいた瞬間、網がふっと動き、タケルの脚に絡みついた。
身をよじるほど強い力で引かれ、タケルは海面へと連れ上げられてしまった。

眩しい光。冷たい風。
塩の匂いが強くなり、重い体が持ち上げられた。
タケルが目を細めながら周囲を見渡すと、そこには大きな船。
そして、網を引き上げた漁師の青年がいた。
青年は驚いた顔をし、声をあげた。

「でっかいタカアシガニ! こんなの、滅多に獲れないぞ!」

仲間の漁師たちが集まってきて歓声をあげる。
タケルは自分が人間たちに捕らえられたことをようやく理解した。
しかし、不思議なことに恐怖よりも安心が心を包んだ。
ずっと会いたかった存在を、こうして間近で見ているのだから。

青年はタケルをじっと見つめ、しばらく考え込んだ。
そして網からそっと外し、海を指さした。

「こいつは…逃がしてやろう。こんなに立派なやつは、海で生きてたほうがいい」

仲間の漁師たちは驚いたが、誰も反対しなかった。
青年の真剣な目が、それを許さなかったのだ。

抱きかかえられたタケルは、海面の近くまで運ばれた。
青年が静かに言った。

「また、どこかで会えたらいいな」

次の瞬間、タケルの体は海へと戻された。
冷たく優しい水が体を包み、ゆっくりと沈んでいく。
タケルはしばらく漂いながら、空を見上げた。
船の影がやがて小さくなり、光の中に溶けていった。

――人間は怖くない。思っていたより、ずっと優しい。

深い海へ戻りながら、タケルは胸の中に新しい願いを抱いた。

いつかこの海で、あの青年の船が通るのを見つけたら、自分の長い脚を高く掲げて挨拶しよう。
人間と海の生き物が、ほんの少しだけ理解し合えた証として。

タケルの脚が海底へ着くと、仲間たちが不思議そうに近寄ってきた。

「どうだった、人間は?」

タケルは少し誇らしげに言った。

「美味しいかどうかは知らないが、とても温かい生き物だったよ」

仲間たちは目を丸くし、しかしすぐに笑いが広がった。
タケルもまた静かに笑い、海底に広がる自分の世界を見回した。

――ここは、なんて美しいところなんだろう。

海の上も、そして海の底も。
タケルにとってはどちらも、心を満たす大切な世界になったのだった。