晴れた日の午後三時、商店街のはずれにある小さな喫茶店「リーフノート」に、香澄は今日も足を運んでいた。
木の扉を押すと、ベルが軽やかに鳴る。
カウンターの奥ではマスターが穏やかな笑顔で迎えてくれる。
「いつものミルクティーでいい?」
「はい。お願いします」
ミルクティー。
それは香澄にとって、ただの飲み物ではない。
カップに注がれる琥珀色の液体。
そこにゆっくりとミルクが落とされ、白が渦を描きながら広がっていく。
その瞬間、香澄の心は少しだけやわらぐ。
仕事での失敗も、通勤電車の疲れも、この色の中に溶けていく気がした。
──この喫茶店を初めて訪れたのは、二年前の冬。
当時の香澄は転職したばかりで、慣れない環境に戸惑い、同僚との距離もつかめず、毎日が少し息苦しかった。
そんなある日、寒さに震えながらこの店に迷い込んだのだ。
そのときカウンターに座っていたのが、若い男性客──悠人だった。
「ここのミルクティー、美味しいですよ」
彼が差し出した笑顔は、不思議と温かかった。
それから香澄は、気がつけば毎週金曜日の午後三時にこの店へ通うようになった。
いつも悠人が同じ席に座り、ふたりは少しずつ言葉を交わした。
仕事の愚痴、好きな映画、旅の話。
話題は取りとめもなかったけれど、その時間だけは世界がやさしく感じられた。
春が過ぎ、夏が過ぎ、季節は巡った。
ふたりの距離も、少しずつ近づいていった。
──そして、ある日の午後三時。
「僕、来月、転勤になっちゃって」
悠人がそう言ったとき、香澄の手の中のカップがかすかに揺れた。
東京から遠く離れた地方都市。
もうこの店で一緒に過ごすことはできないのだと思うと、胸の奥が静かに痛んだ。
「……そっか。おめでとう」
そう言うのが精一杯だった。
別れ際、悠人は笑って言った。
「また、どこかでミルクティーを飲もう」
その約束を最後に、彼は去っていった。
それからの香澄は、忙しさに紛れて日々を過ごした。
だが、どんなに時間が経っても、午後三時になると不思議と胸の奥がざわめいた。
あの約束の言葉が、まだ彼女の中で生きていたからだ。
──そして、今日。
マスターがいつものようにミルクティーを差し出したとき、扉のベルが再び鳴った。
振り返ると、そこに立っていたのは懐かしい笑顔の人。
「……悠人さん?」
「久しぶり。転勤先から戻ってきたんだ」
香澄の胸の奥に、あたたかなものが広がる。
「覚えてたんですか、このお店」
「もちろん。ミルクティーを飲むたびに、ここの味を思い出してた」
ふたりは向かい合って座り、再び湯気の立つカップを手に取った。
渦を描くミルクが、まるで時を巻き戻すようにふたりの記憶をつなぐ。
「やっぱり、ここのが一番おいしいね」
「……うん。やっぱり午後三時に飲むのが、いちばん落ち着く」
笑い合いながら、カップを口に運ぶ。
やさしい甘さが舌の上に広がり、過ぎた時間の隙間を埋めていくようだった。
午後三時の光が窓辺に差し込み、カップの中の琥珀色を淡く照らす。
香澄は思う。
──ミルクティーが好きなのは、たぶん味だけじゃない。
そこに流れる、誰かとの時間が好きなのだと。
この店の午後三時には、いつもあの香りと、ひとつの約束がある。


