山口県の小さな町、萩のはずれに、古びた茶店が一軒あった。
看板には、煤けた文字で「川原庵」と書かれている。
冬の終わり、観光客もまばらなその町で、湯気を立てる鉄瓶の音だけが静かに響いていた。
店を切り盛りするのは、七十を越えた女性・澄江だった。
夫を早くに亡くし、娘も都会へ出てから二十年。
今は一人で店を守り、瓦そばを焼き続けている。
鉄の瓦を熱し、茶そばをこんがりと炒め、錦糸卵と甘辛い牛肉を彩りよく乗せる。
熱々の瓦の上で、そばがパリッと音を立てるたび、澄江の心にも少しだけ、かつての賑やかな声がよみがえるのだった。
——あの日、戦地へ向かう夫に持たせた弁当も、瓦で温めたそばだった。
瓦の上に緑のそばを乗せ、卵焼きと刻み海苔を添えた。
夫は「こんなに旨いもん、戦地じゃ食えんぞ」と笑い、澄江の頭を優しく撫でた。
その笑顔が、最後の記憶になった。
瓦そばを焼くたび、澄江はあの戦中の風景を思い出す。
瓦の焦げる匂い、湯気に混じる土の香り。
あれから半世紀が過ぎても、あの味だけは変えられなかった。
ある春の日、店の戸口に若い男が立った。
黒いリュックを背負い、少し緊張した様子で「瓦そばを、一人前ください」と言った。
「観光かね?」と尋ねると、男は小さく首を振った。
「母が、ここの瓦そばをよく作ってくれたんです。もう、亡くなったんですけど……。どんな味だったのか確かめたくて」
澄江の手が止まった。
茶そばをほぐしながら、男の言葉が胸に沈む。
「お母さんのお名前、聞いてもいいかね?」
「中村久美子といいます。もう十五年前です」
澄江は思わず息をのんだ。
久美子は、かつてこの店で働いていた少女だった。
澄江の手元を真似して瓦そばを焼き、よく焦がしては笑っていた。
「そうかい……。久美子ちゃんの息子さんか」
男は驚いたように目を見開いた。
「母のことを……ご存じなんですか?」
「ええ、よう働く子だった。そばの湯気に顔を赤くしてね。あの子が“いつか東京でも瓦そばを広めたい”って言ってたのを、今でも覚えとるよ」
瓦の上に茶そばを広げ、澄江は久しぶりに力を込めて菜箸を動かした。
そばの香ばしい匂いが立ちのぼる。
錦糸卵の黄色、牛肉の焦げた茶色、もみじおろしの赤。
その色彩が、久美子の明るい笑顔と重なった。
「お待たせね」
男は箸を取り、そっとそばを口に運んだ。
カリッという音がして、すぐに涙が一粒こぼれた。
「……この味です。母の味と、同じです」
澄江は小さくうなずき、湯気の向こうで笑った。
「それは、あの子がここで覚えた味だから。あんたのお母さんが、一生懸命守ってくれたんよ」
店の外では、桜が風に散っていた。
男は食べ終えると、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。母の思い出を、取り戻せました」
澄江は静かに瓦を布で拭きながら答えた。
「思い出は、味で残るもんよ。人は忘れても、舌が覚えとる。だから、またいつでもおいで」
男が去ったあと、澄江はもう一度、瓦を火にかけた。
誰のためでもない、自分のための一人前。
焦げる音が、店の中に優しく響いた。
瓦の上でそばが焼ける匂いに包まれながら、澄江はふと呟いた。
「おまえも、ちゃんと伝わっとるよ……」
瓦の上のそばが、パチリと音を立てた。
まるで「ええ、聞こえとる」と、昔の夫と娘が返事をしているようだった。
——湯気の向こう、春の光が差し込む。
瓦そばの香りは、今日も誰かの記憶を呼び覚ます。


