麻子は掌に乗るほどの小さな椅子を指先で撫でていた。
木目の細やかさ、背もたれの曲線、そのどれもが本物の家具さながらの完成度だ。
手のひらの中に、小さな世界が確かに存在している。
その感覚がたまらなく好きだった。
部屋の棚には、彼女がこれまで集めてきたミニチュア家具がずらりと並ぶ。
アンティーク調のソファ、真鍮の取っ手がついた引き出し、ステンドグラス風のランプ。
どれも彼女が仕事帰りにコツコツと作ったり、ネットで見つけたりした一点ものだ。
麻子の仕事は設計事務所の事務員。
日中は数字と書類に囲まれ、淡々とした時間を過ごしている。
だが夜になると、机の上に小さな作業台を広げ、細い筆やピンセットを手に、自分だけの“家”を作り始める。
ミニチュアの家具たちは、彼女の心の中にある理想の部屋のかけらだった。
ある日、古道具屋の隅で、古びたガラスケースを見つけた。
掌ほどの大きさで、扉が一枚だけ開くようになっている。
中は埃まみれだったが、麻子は一目で気に入った。
店主は「昔、誰かがドールハウスの一部に使ってたらしい」と言った。
麻子は少し迷った末、そのケースを持ち帰った。
家に着くと、彼女はケースを丁寧に拭き、内部に新しく作った小さな机と椅子を配置した。
壁には自作の小さな絵画をかけ、机の上には本とランプを置いた。
完成したとき、彼女は思わず息をのんだ。
まるで誰かが今にもその部屋で読書を始めそうだった。
次の日、麻子は出勤前にもう一度ケースを覗いた。
ふと、机の上の本が少し開いている気がした。
気のせいかと思い、そのまま出かけた。
それから数日、奇妙なことが続いた。
夜、作業机の上に置いていたミニチュアのカップに、うっすらと水滴がついていたり、ソファの位置が少しだけずれていたりするのだ。
誰かが小さな部屋で生活しているように。
「まさかね」と笑いながらも、麻子はどこか胸が高鳴った。
ある晩、停電が起こった。
暗闇の中で、彼女はスマホのライトを頼りに棚の前へ行った。
ふと、小さなケースの中から淡い光が漏れているのが見えた。
覗き込むと、机の上のランプがかすかに灯っていた。
ミニチュアのはずのランプが、確かに光を放っていたのだ。
麻子は息を呑み、ケースの前にしゃがみ込んだ。
その瞬間、小さな影が動いた。
机のそばで、親指ほどの小さな人影が本を抱えて立っていた。
淡い金髪に、麻子が作った布切れの服。
目が合った。
ほんの一瞬、世界が止まった気がした。
小さな住人は怯えたようにランプの光を遮り、机の下に隠れた。
停電が復旧し、部屋の明かりが戻ったとき、ランプの光は消えていた。
ケースの中には何の変化もなかった。
だが麻子の心は、もう以前とは違っていた。
その夜、彼女は机に向かい、新しい家具を作り始めた。
小さなベッドと、温かそうな毛布。
ミニチュアの世界に、誰かが本当に住んでいるのなら、居心地のいい空間を作ってあげたいと思った。
翌朝、ケースを覗くと、ベッドの上の毛布が少しだけ乱れていた。
小さな本は、枕元にきちんと閉じて置かれている。
麻子はそっと笑った。
それからというもの、彼女の夜はますます忙しくなった。
新しい家具を作るたびに、翌朝にはその配置が少し変わっている。
棚の前に腰を下ろし、彼女はよく話しかけた。
「次はどんな部屋がいい?」
もちろん返事はない。
けれど、ランプの光がふと瞬くたび、麻子はその沈黙の中に、微かな息づかいを感じた。
彼女の部屋の棚には、今も小さな世界が静かに息づいている。
指先ほどの家具たちが、誰かの暮らしを支えている。
麻子は今日もピンセットを手に、小さな家を完成させていく。
――きっとこの世界のどこかで、自分も誰かのミニチュアなのかもしれない、と思いながら。

