朱塗りの鳥居をくぐるたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。
小さいころから、奈央は鳥居が好きだった。
初詣の神社で見た鳥居、町外れの丘に立つ小さな祠の鳥居、山道の奥に何十も並ぶ赤い列。
どれを見ても、胸がきゅっとなる。
まるで、どこか懐かしい場所へ帰るような気がした。
高校を卒業してから、奈央は一人で「鳥居巡り」を始めた。
休日ごとに地図を広げ、まだ訪れたことのない神社を探す。
古い鳥居の前に立ち、静かに一礼して、木の質感や朱の色を確かめる。
スマホで写真を撮るのは後回し。
まずは目で見て、空気を吸い込むのが奈央の決まりだった。
ある春の日、奈央は山形の外れにあるという「消える鳥居」の噂を耳にした。
山奥の湖に、満月の夜だけ現れる鳥居がある。
翌朝には跡形もなく消える――そんな昔話のような話。
半信半疑のまま、奈央はリュックにカメラを詰めて、列車に乗った。
山間の駅で降りると、地元のバスが一日に二本しかない。
終点の停留所で降りると、あとは徒歩で湖を目指すしかなかった。
道は細く、木々の間からはまだ雪の残る山肌がのぞいている。
ようやく湖にたどり着いたのは、日が傾き始めたころだった。
水面は静かで、風の音と鳥の声しか聞こえない。
「……ほんとにあるのかな」
湖畔に腰を下ろし、奈央はカメラを抱えたままぼんやりと水面を見つめた。
空が群青に染まり、やがて月が昇る。
湖面が銀色に揺れる。
そのとき――。
波の間から、朱色の線がすっと浮かび上がった。
まるで霧の中から姿を現すように、一本の柱、もう一本、そして笠木が形を成していく。
息を呑んだ。
目の前に、確かに鳥居が立っている。
奈央は立ち上がり、ゆっくりと近づいた。
足首まで水に浸かりながら、鳥居の前に立つ。
朱は薄く光を帯び、月明かりに溶けている。
触れようと手を伸ばすと、冷たい水面をすり抜けた。
まるで幻のようだった。
けれど、その瞬間、胸の奥で誰かの声がした。
――おかえり。
思わず振り返ったが、誰もいない。
湖面の光だけが静かに揺れていた。
なぜか涙があふれた。
理由は分からない。
ただ、心のどこかが懐かしさで満たされた。
翌朝、奈央は再び湖を訪れた。
鳥居はもう消えていた。
跡も残っていない。
しかし足もとに、小さな木片が一つ落ちていた。
朱色の塗料がわずかに残っている。
奈央はそれを拾い、ポケットにしまった。
帰りの列車で、車窓を流れる山並みを眺めながら、奈央は思った。
鳥居は、神様のための門だと言われる。
でもそれだけじゃない。
人と人、人と過去、人と何か大切なものをつなぐ“境界”なのかもしれない。
その後も奈央は旅を続けた。
海辺に立つ白い鳥居、商店街の裏路地にひっそりとある鉄の鳥居、廃村の奥で苔むした木の鳥居。
どの鳥居も、くぐるたびに少しだけ心が軽くなった。
数年後、奈央は自分の写真を集めて、小さな個展を開いた。
タイトルは「境の光」。
展示の最後に、あの湖の写真があった。
そこには何も写っていない。
ただ、月明かりに照らされた水面が静かに輝いているだけ。
だがその前で立ち止まる人々は、なぜか皆、しばらく黙ってその写真を見つめていた。
奈央は微笑んだ。
――たぶん、誰の心にも、自分だけの鳥居があるのだろう。
それは、帰る場所であり、また歩き出すための門。
夜、会場を閉めたあと、奈央は窓の外を見上げた。
遠くの山の稜線に、淡く光る朱色が一瞬だけ見えた気がした。
けれど次の瞬間には、もう消えていた。
それでも奈央は、静かに微笑んだ。
「また会えるね」
――鳥居は、今日も誰かを迎えに立っている。


