静かな展示室

ホラー

――山あいの道を抜けた先に、その博物館はあった。

「山霧資料館」と書かれた古びた木の看板。
地図にも載っていない、地元でも知る人は少ない場所だ。

大学で民俗学を学ぶ由梨は、卒業論文の題材に「山間部に残る信仰と伝承」を選び、調査のためにこの館を訪れた。
教授から聞いた話では、もともと村の古い家を改装した小さな博物館で、村に伝わる祭具や仮面、風習の記録を展示しているという。

入口の扉を押すと、鈴の音がひとつ鳴った。
館内は薄暗く、木の床が冷たく軋む。受付には誰もいない。
だが、奥からゆっくりと足音が近づいてきた。

「……ようこそ。見学の方ですか」

姿を現したのは、白髪交じりの老女だった。
皺の深い顔に笑みを浮かべてはいるが、どこか硬い表情をしている。
由梨が見学の目的を話すと、老女は頷き、言葉少なに案内を始めた。

最初の部屋には、古い農具や民具が並んでいた。
次の部屋には、奇妙な形の仮面がずらりと並ぶ。
どれも人の顔に似ていながら、目や口の位置が微妙にずれている。

「それは、“まもり面”と呼ばれるものです」
老女が低く言った。
「昔、この山には“影渡り”という病があってね。夜に人の影が抜け出して、他人の体に入り込むと信じられていました。その影を追い払うため、村の者は自分の顔を隠す面を作ったのです」

由梨は仮面をじっと見つめた。
表情のない顔が、こちらを見返しているように感じた。

やがて案内は終わり、老女は言った。
「二階にも展示がありますが……あまり長くはいないでくださいね。夕暮れを過ぎると、足元が危なくなりますから」

由梨は礼を言い、階段を上がった。
二階はさらに静かだった。
展示室の奥、ひときわ大きなガラスケースの中に、真紅の衣装が飾られている。
布の端には古い血のような黒い染みがある。
説明板には「贄(にえ)の衣」とあった。

――贄?

読み進めると、年に一度、村人が“山の主”に若い娘を差し出す祭りが行われていたと書かれていた。
選ばれた娘はこの衣をまとい、夜明けまで踊り続けたという。
だがある年を境に、その祭りは途絶え、村そのものも姿を消した。

「……そんな記録、どの文献にも載ってなかった」
由梨はつぶやいた。
携帯を取り出し、衣装の写真を撮ろうとした瞬間――

背後から、誰かの息遣いがした。

振り返ると、廊下の奥に影が立っていた。
輪郭は人の形をしているが、顔がない。
まるで黒い布をまとった人形のようだ。

心臓が跳ねる。
由梨は後ずさりしようとしたが、足が動かない。影はゆっくりと近づいてくる。

――カタン。

隣の部屋の扉が開き、老女が現れた。
「もう、夕暮れですよ。降りましょう」
その声には、どこか切迫した響きがあった。

由梨が振り向くと、影はもう消えていた。

階段を降りる途中、老女がふと呟いた。
「この館はね、あの村の跡地に建っているんです。あの衣も、仮面も、みんな掘り出されたもの。……でも、本当は展示してはいけないのですよ」

「どういう意味ですか?」
由梨が問うと、老女は首を振った。
「ここに長くいると、影が寄ってくる。あの面をかけていないと、連れていかれてしまうのです」

外に出たとき、すでに山は濃い霧に包まれていた。
老女は扉を閉め、鈴の音がまたひとつ鳴った。

由梨は振り返り、館を見た。
木の壁が夕闇に溶けていく――そのガラス窓に、一瞬だけ自分の顔が映った。

だが、そこにあったのは――
無表情の“まもり面”だった。

風が吹き抜け、鈴の音が遠くで揺れた。
山霧資料館は、静かにその影をのみ込んでいった。