朝の光がカーテンの隙間から差し込み、キッチンのステンレスをやわらかく照らす。
川辺美月は、いつものように冷蔵庫を開けて、アーモンドミルクのパックを取り出した。
とくん、とグラスに注ぐと、淡いベージュの液体が小さな波を立てて止まる。
その香ばしい香りが、まだ眠たい彼女の心をゆっくりと目覚めさせていく。
アーモンドミルクを飲むようになったのは、一年前。
会社の健康診断で「少しコレステロールが高めですね」と言われたのがきっかけだった。
牛乳の代わりに、と軽い気持ちで手を伸ばしただけだったのに、気づけば毎朝の ritual になっていた。
ミルクフォーマーで温めて泡立てたアーモンドミルクを、挽きたてのコーヒーに注ぐ。
ふんわりと甘く香ばしい香りが広がる。
「今日もこれで頑張れる気がする」と美月は独り言をつぶやいた。
窓の外では、近所の公園の木々がわずかに色づきはじめていた。
秋の気配。アーモンドの実も、ちょうどこの季節に収穫されるのだと、ネットの記事で読んだことを思い出す。
「アーモンドの木って、日本ではあまり見かけないよね」とぽつりと呟くと、頭の中に浮かぶのは、数ヶ月前に出会った青年の笑顔だった。
それは、街のカフェでのこと。
「アーモンドミルクのラテをください」と注文したとき、カウンターの中にいた青年が、少し嬉しそうに言った。
「僕も、それ好きなんです。牛乳よりも香りが優しくて」
その声が印象的で、彼の名札にあった「新(あらた)」という名前を覚えていた。
それからというもの、美月はそのカフェに通うようになった。
彼はいつも静かで、だが手際よくラテを淹れ、仕上げにアーモンドの粉をふりかけてくれる。
「美月さんのラテには、少しだけ多めに泡をのせておきました」
そんな小さな気遣いが、彼女の一日をあたためた。
しかし、季節が変わる頃、彼の姿は店から消えた。
ある日、貼り紙に「店長の新は新しい夢に向かって旅立ちます」とだけ書かれていた。
旅立ち――どこへ? その言葉だけが、美月の胸に残った。
それから半年。
今日も美月は、家でアーモンドミルクラテを淹れる。
最初の一口を飲むたびに、あの優しい笑顔が思い出される。
「新さん、どこでアーモンドミルクを飲んでいるんだろう」
そんなことを考えながら、彼女は出勤の支度をする。
その日、会社の帰り道、駅前の路地に小さな新しいカフェがオープンしていた。
木の看板に書かれた店名は「Roasted Dream」。
ガラス越しに中をのぞくと、カウンターの奥で見慣れた横顔が、コーヒーを注いでいた。
驚いて立ち尽くす美月に気づき、彼が微笑む。
「……久しぶりですね。アーモンドミルクラテ、まだお好きですか?」
その声に、あの日と同じ温かさがあった。
店に入ると、焙煎したての豆の香りの中に、かすかにアーモンドの香りが混ざっている。
「このお店、あなたの?」
「はい。ずっとやりたかったんです。ナッツを使った飲み物の専門店。アーモンドも、自分で煎っているんですよ」
彼は照れくさそうに笑った。
出されたラテは、以前よりも香りが深く、口に含むとほのかな甘みが広がる。
「……おいしい」
「よかった。これ、アーモンドを少し長めにローストしてるんです。香ばしさが増すんですよ」
その言葉に、美月は胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
カップの中で、アーモンド色の泡がゆっくりと消えていく。
それを見つめながら、美月は思った。
たとえ離れても、誰かの優しさは、香りや味となって心に残る。
そして、またどこかで再び出会えるのかもしれない――。
帰り際、新が小さな包みを手渡した。
「自家製のアーモンドミルクです。明日の朝、よかったら飲んでください」
包みを受け取った手の中に、かすかな温もりが残る。
翌朝、美月はそれをグラスに注ぎ、一口飲んだ。
香ばしくて、やさしくて、どこか懐かしい味がした。
窓の外には、やわらかな光が差し込み、新しい朝が静かに始まろうとしていた。
――アーモンド色の、穏やかな朝だった。


