風の通り道

面白い

春の終わり、田植えの準備で村が慌ただしくなりはじめた頃。
佐織は、三年ぶりにふるさとの田園へ戻ってきた。

大学を卒業して東京の会社に勤めていたが、仕事に追われるうちに、自分が何のために働いているのか分からなくなってしまった。
そんな時、祖母が体を壊したという知らせが届いたのだ。

「おばあちゃんの田んぼ、どうするの?」
電話口の母の声が少しだけ震えていた。

祖母は昔から、一人で広い田を守っていた。
田植えも草取りも、稲刈りも、全部ひとり。
その姿を見て育った佐織にとって、田んぼは“あたりまえにそこにある風景”だった。

けれど東京での暮らしに慣れるにつれ、あの湿った土の匂いや、水面に映る夕焼けの色を思い出すことは、ほとんどなくなっていた。

――そして今、風にそよぐ苗の列を見つめながら、佐織は胸の奥が少し痛んだ。

「おかえり、佐織」
畦道を歩いてくる祖母の声。
杖をついてはいるが、目は相変わらず澄んでいる。

「おばあちゃん、無理しちゃだめだよ」
「だいじょうぶ。田んぼに立ってるとね、不思議と力がわくの」

祖母は笑った。
田んぼに差し込む夕日が、稲の先に金の線を描いている。

―――

翌朝、佐織は祖母に教わりながら、田の手入れを手伝った。
水の入り具合を見て、泥の感触で土のやわらかさを確かめる。
「足の裏でわかるんだよ」と祖母が言う。

昼過ぎには、麦わら帽子をかぶった近所の人たちが集まってきた。
「お、佐織ちゃん帰ってきたんか。よう戻ったなあ」
「おばあちゃん一人じゃ心配だったでしょ」

誰もが笑顔で迎えてくれる。
その温かさに、都会では感じられなかった“人のつながり”というものが、ゆっくりと心に沁みてくる。

―――

夕方、作業を終えて家に戻る途中、川沿いの道で佐織は足を止めた。
風が、頬を撫でていく。
水面が揺れ、風が抜け、稲がそよぐ。

ああ、この音だ。

子どものころ、祖母と並んで田んぼを歩いたときに聞いた“風の通り道”の音。
どこか懐かしくて、心の底がやわらかくなる。

「都会の風は、冷たかったな」
小さく呟く。
何も返事はない。
ただ、風が彼女の髪をふわりと持ち上げた。

―――

その夜、縁側で祖母と夕飯を食べた。
窓の外では蛙の声がにぎやかに響いている。

「どうするの、佐織。この田んぼ」
祖母の問いに、佐織はしばらく黙っていた。

「まだ決められない。でも、もう少しここにいたい。風の匂いを、忘れたくないの」

祖母は微笑んだ。
「田んぼは逃げないよ。風もね。いつでも待ってる」

―――

夜が更け、空には満天の星。
街では見えなかった無数の光が、田の水面にゆらゆらと映っている。

その光景を眺めながら、佐織は思った。
生きる場所を選ぶというのは、働く場所を選ぶことだけじゃない。
心が呼吸できる場所を見つけることなのかもしれない。

彼女は深く息を吸い込んだ。
風が肺の奥まで届き、心のざらつきを洗い流していく。

明日の朝も、田んぼに立とう。
裸足で土を踏みしめて、もう一度“風の通り道”を感じよう。

そう思いながら、佐織は目を閉じた。

―――

夜風が、カーテンをやさしく揺らした。
その音は、どこかで笑う祖母の声のようでもあった。