冬の朝、窓辺の鉢に咲くシクラメンが、淡い光を受けて小さく揺れた。
花びらの裏に宿る紅が、まるで頬を染めるように温かい。
「今年も咲いたんだね」
由紀は指先でそっと葉を撫でた。
冷たい空気の中に、かすかな土の匂いが広がる。
シクラメンの鉢は、三年前に亡くなった祖母が残したものだった。
祖母はいつもこの花を「冬の灯り」と呼び、毎朝、霧吹きで葉を潤していた。
「寒い季節ほど、花は人を励ますんだよ」
祖母がそう言って笑っていた顔を、由紀は今も鮮明に思い出す。
祖母の家を引き継いだのは、由紀だった。
東京での仕事を辞め、山あいの小さな町へ戻ってきたのは、祖母の葬儀の後だった。
あの頃は都会の速さに疲れていて、心のどこかで逃げ場を求めていたのかもしれない。
けれど、戻ってきた当初は何もかもが寂しく感じた。
祖母のいない家、沈黙の台所、風の音ばかり響く夜。
そんな中で、唯一変わらずそこにあったのが、このシクラメンの鉢だった。
花の手入れは苦手だった。
祖母のように上手く水をやれず、葉が黄ばんでしまうこともしばしば。
それでも、枯らすわけにはいかないと、毎朝欠かさず声をかけた。
「おはよう、今日も元気?」
そう話しかけているうちに、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
ある日、町の園芸店で、年配の店主が由紀に声をかけた。
「シクラメンはね、ちゃんと光の方を向くんだよ。だから、人も光を見つけるように育ててやるといい」
その言葉が胸に残った。
それから由紀は、花に光がよく当たる場所を探して鉢を移動させ、風通しを工夫し、枯れた葉を丁寧に摘んだ。
すると、次の冬、シクラメンは見事に花を咲かせた。
祖母が世話していた頃と同じように。
「おばあちゃん、見てる?」
窓の外には、雪が静かに降っていた。
灯油ストーブの音とともに、部屋の空気が少しだけ温まる。
春になって花が終わると、由紀は球根を掘り出して休ませた。
夏の間は、何も咲かない寂しい鉢が窓辺にあった。
けれどそれもまた、季節の呼吸のように感じられた。
秋の終わり、再び芽が出たとき、由紀は小さく息をのんだ。
新しい葉が巻きながら伸びていく。
その緑の勢いに、祖母の手の温もりが宿っているようだった。
そして今、三度目の冬。
シクラメンは、以前よりも大きく、しっかりと咲いている。
花びらのひとつひとつが、窓から差す光を受け、まるで笑っているようだ。
由紀は湯気の立つマグを手に取り、椅子に腰を下ろした。
外では雪がしんしんと降り積もっていく。
「おばあちゃん、私ね、また働こうと思う。町の子どもたちに絵を教えるの」
小さくつぶやくと、風がカーテンを揺らした。
まるで誰かがうなずいたように。
花の隣に置いた古い写真立てには、祖母の笑顔がある。
その前で、由紀はそっと頭を下げた。
「ありがとう。おばあちゃんの灯り、ちゃんと受け取ったよ」
シクラメンの花びらが、ふわりと震えた。
冬の光の中で、それは確かに、ひとつの命の約束のように輝いていた。

