春の風が山の裾をなでるころ、里の道端にはやわらかな緑が顔を出す。
よもぎ――。その香りを嗅ぐと、花の季節の訪れを思い出す。
紗英は小さな籠を手に、祖母と並んで土手を歩いていた。
祖母は腰をかがめ、指先で葉の裏を確かめる。
「これがいいよ。ほら、柔らかいでしょう?」
白い指に摘まれたよもぎの葉は、ふわりとした産毛をまとっていた。
紗英は真似をして摘もうとしたが、どれも少しかたくて祖母に笑われる。
「焦らなくてもいいんだよ。よもぎは待ってくれるからね」
そう言って祖母は、小さな葉を籠に重ねていった。
春休みの恒例行事。
二人でよもぎを摘み、それを草餅にして食べるのが楽しみだった。
餅を蒸すときに台所いっぱいに広がる香りは、紗英にとって「春のにおい」そのものだった。
けれど、その年の春は少し違っていた。
祖母が入院したのだ。
冬の終わりから咳が増え、歩くのもつらそうにしていた。
「今年は一緒に行けないね」と祖母は申し訳なさそうに笑った。
「来年はきっと行こうね」
紗英はそう言ったが、その声には自信がなかった。
病室の窓から見える桜は、もう半分散っていた。
それでも紗英は、一人で山の土手へ向かった。
祖母の籠を持ち、見よう見まねで葉を摘む。
春の風が髪を揺らし、遠くでウグイスが鳴く。
手のひらに積もっていく緑が、なんだか心細く見えた。
摘んだよもぎを家に持ち帰り、祖母のレシピ帳を開く。
茶色くなったページには、丁寧な文字で「よもぎ餅」の作り方が書かれていた。
よもぎを茹でて、冷水にさらし、細かく刻む――。
祖母の手ほどきで何度も見た作業を、紗英はひとつひとつ思い出しながら進めた。
刻んでいると、あの懐かしい香りが立ちのぼる。
胸の奥がつんとした。
「おばあちゃん……」
小さく呟きながら、手を止めた。
祖母の笑顔が浮かぶ。
優しい声も、しわの深い手も。
きっとこの香りは、祖母そのものだったのだ。
できあがった草餅を皿に並べ、病院へ持っていった。
祖母はベッドの上で少し驚いた顔をして、すぐに柔らかく笑った。
「まあ……きれいな色だねえ」
「ちゃんとおばあちゃんのレシピで作ったんだよ」
「そうかい、じゃあ一口だけ」
祖母はゆっくりと噛みしめ、目を細めた。
「香りがいいね。……春の味だ」
その言葉を聞いたとき、紗英の目に涙がにじんだ。
数週間後、祖母は静かに旅立った。
その年の夏、紗英は庭の隅に小さなよもぎを植えた。
祖母が眠る場所からも見えるように。
そして翌年の春。
よもぎは根を広げ、庭の一角を淡い緑に染めていた。
風が吹くたび、ほのかに香る。
紗英はその中から柔らかい葉を摘み、籠に入れた。
指先が少し震えたが、今度はちゃんとわかる。
どの葉が一番いいか。
台所に立ち、餅を蒸す。
湯気とともに立ち上る香りが、あの日の記憶をやさしく包んでいく。
できあがった草餅をひとつ仏壇に供え、紗英は静かに手を合わせた。
「おばあちゃん、今年もできたよ」
窓の外では、春の光がよもぎ色の葉を透かして揺れていた。
その香りは、今も変わらず紗英の心に春を運んでくる。
――よもぎの季節がめぐるたび、紗英は思う。
香りは記憶を運ぶ翼なのだと。
そして、約束はきっと、こうして息づいていくのだと。


